有 限 の 魚
視線が重なった。
それは偶然としか言いようがなかった。夜とはいえ、イーストシティは東部一の繁華街だ。ましてや、今自分たちがいるのは駅の近くであり、酒を扱う店なら開いていて当然の時間帯だから町を歩く人間は決して少なくない。
視線を感じたわけでも、特に深い意味があったわけでもなかった。ただ、何気なく視線を向けたその先に――――彼が、いた。
琥珀の瞳を見開き、最初に浮かべたのは驚愕の表情だった。驚いて当然だろう。自分だって驚いたのだから。
そのあと、無表情を取り繕うと視線をそらした。そんな彼に気付いたのだろう。彼、――――エドワードの弟であるアルフォンスがこちらを見たのがわかった。とはいえ、アルフォンスは鎧姿で、当然表情はわからない。それでも顔はこちらを見ていたし、ぺこりと頭を下げたから自分を見つけたのは間違いがないだろう。
そんな弟の腕を引っ張り、そのままエドワードは夜の町を歩き出した。おそらくは宿へ向かったのだろう。
ずいぶん間が悪いな、と思った。数日前にこちらに来る、という連絡は受けていたし、それが今日だとしても不思議はない。けれど、それでもよりによってこのタイミングでなくても良いだろうに、とも思う。
「どうかなさいました? 誰か、あちらに気になる方がいらっしゃるの?」
耳元で囁かれるのは、艶めかしい女の声。姿も声を裏切らない。どこか声に棘が含まれるのは、自分が彼女を見ずに、『誰か』に気を取られていたからだろう。
非礼を詫び、知人の顔を人混みの中、見つけたのだと告げると、途端女は探るような目つきでロイを見る。
「まぁ。それは偶然ですわね。その方は、お美しい方なのですか?」
美しいか、と聞かれて苦笑する。知人は女だ、と勘違いしたらしい。よほど自分は熱心にあの子どもを見ていたのだろう。
「あなたほどでは」
にっこりと微笑みながら告げる。エドワードは美しい、というにはまだ幼すぎると言えるし、これ以上、彼のことを目の前の女に話す義理も必要もない。
「まぁ、そんな」
恥じらった表情を浮かべる女は、それこそ美しい、というには十分だろう。そしてそのことを、女自身、良く知っているはずだ。
彼女とは今夜、食事を一緒にする約束をしている。間柄は一応知人ということになるだろう。彼女の友人が東方司令部勤務で、その縁で知り合った。
先日、偶然町で遭遇し、是非一度だけでも夕食を、と彼女から熱心に誘ってきた。
断る理由も特になく、気まぐれもあったが頷いたのはロイ自身だ。
ただし、自分が聞いていた話では、彼女と二人だけの食事ではなく、件の彼女の友人を含めた複数人数のはずではあったのだが。
彼女の話を信じれば『偶然、自分以外は皆の都合が悪くなってしまった』のだそうだ。
ともかく、ここ最近は職場での夕食を除けば誰かと夕食を共にしたことがなく、そして待ち合わせをしたのもずいぶん久しぶりのことだった。
――――その久しぶりのタイミングで、彼と逢ってしまったのだから、やはり間が悪いと言うしかない。
エドワードがどう思ったのか想像するのは容易だ。目の前のこの女を、自分の恋人と思ったに違いない。男と女が二人だけで夜の町を歩いていれば、そう誤解するのも当然だろう。
もっとも、本来は誤解されてもそう困るほどのことではない。自分は今現在独身で、恋人もいない。当然、浮気をしているわけでもなかった。
実際、視線が重なったのがエドワードやアルフォンスでさえなかったら、自分はさほど気にも留めなかっただろう。偶然、知人を見かけただけのことでしかなく、それこそ咎めるように美しい方なのか、などと尋ねられるほど熱心に見つめることもなかったはずだ。
けれど、相手が彼となれば話は別だった。
「あなたと食事ができるなんて、本当に嬉しく思いますわ」
褒めたことで機嫌を直したらしい。微笑み、口を開く。
肉厚の唇には真っ赤な口紅。女にはそれが良く似合う。そう思うのに、心は動かされない。
かつての自分だったら、もう少しこの状況を楽しめただろうに。
(仕方のないことだ)
適当に女の言葉に相づちを打ち、他愛のない言葉をやりとりしつつ内心でそんなことを思う。
以前は楽しく思えたことでも、今は興味がない。それでも実際に逢えば楽しい気分になるかと思い、今夜のことも承諾したが結果としては無駄だった。
その上、あの子どもと遭遇する間の悪さだ。運が悪いにも程がある。
明日、エドワードとアルフォンスは東方司令部にやってくるだろう。その時、エドワードはどんな表情で自分を見るだろうか。
「どうかしましたの?」
どうやら、勘の良い女だったようだ。対応をおざなりにしたわけでもないのに、また探るような目つきで自分を見る。勘が良いのなら、自分がなびかないこともすぐに見極めるだろう。それが不幸中の幸いかも知れない。
「いいえ、何でも」
そう、何でもないことだ。あるのは単純な事実だけ。
―――――――自分はあの子どもに、あの子どもは自分に恋している。
そして自分はそんな事実を知っている。
ただ、それだけのことだった。
◇ ■ ◇
翌日、予想通りエドワードとアルフォンスの二人が東方司令部へとやってきた。
アルフォンスがいつも通り礼儀正しく挨拶をするのに対し、エドワードはと言えばこちらもいつも通り部下達には笑顔を振りまき、自分にだけは愛想がない。
基本的に、エドワードが自分に対して笑顔を向けることはない。それが常だったから、その視線の意味に気付いたのはかなり最近のことだった。
自分と面と向かっている時は、エドワードは自分を睨み付けていることが多い。そうでなければ、そっぽを向いてろくにロイを見ようともしない。大抵はそのどちらかだ。だと言うのに、例えば自分が書類を眺めているときや、部下と話しているとき、彼の視線を感じた。
最初は偶然だろう、と思っていた。
意味もなく自分のいる方向へ視線を向けただけかもしれないし、たまたま何か気になることでもあるのかもしれない。
けれどそれが回数を重ね、ある日ようやく気付いた。彼が自分を見ている、その理由に。
気付いてみれば、何故今までその事実に思い当たらなかったのだろう、と思えるほど単純な理由だった。
思い返して見ればなるほど、と思う態度を示されたことも一度や二度ではなく、つまり自分は存外、鈍かったらしい。
そして皆、口には出さないが自分の部下達もその事実には気付いているようだ。
多感年齢だから同性相手に疑似恋愛、という話は珍しくない。更に言うなら、軍人はどうしても女性が少なく、同性愛の話もやはりと言うべきか珍しくない。そして気付いたところで、その事実に嫌悪を示す部下も、面白がる部下もいなかった。
そしておそらくは、アルフォンスも気付いていることだろう。頭も良く、冷静で、物事を良く見ている少年だ。その上、誰よりも兄と過ごす時間の多い彼が気付かないはずがない。
それほどまでに、エドワードは根が素直な性質の子どもだった。
自分に恋をした理由は知らない。理由などないのかもしれない。
「じゃぁ、ボクは先に資料室に行ってるね」
「ああ。オレもすぐ行く」
東方司令部に来ると、エドワードはロイに旅の報告をするのが通例になっている。
内容は書類にも記してあるのに、とエドワードはいつも不満を漏らすが、ロイは毎回それが決まりだよ、と笑って流している。
報告中はアルフォンスがエドワードの傍らにいることもあれば、今日のように読みたがっていた本が入荷されたからと資料室にいることもあった。
「……話がすぐ終わるとは誰も言ってないんだがね」
「すぐ終わるって。報告する内容がないからな」
「なるほど」
今回の旅も無駄に終わった、ということだろう。さして大きなトラブルもなく、成果もなかった。差し出された書類はその予想を裏付けるように薄い。
「とりあえず、怪我がなくてなによりだよ。君は良く怪我をするからね」
「良くって程でもねーだろ。別に怪我しようとしてしたわけじゃねぇし」
いつも通りの憎まれ口に、思わず笑みが浮かんだ。途端、エドワードが困ったように視線を動かし、それから不意に思いついたように言った。
「き、昨日大佐と一緒にいたひと、綺麗だったねってアルが褒めてたぜ」
エドワードの気持ちを知っているだろうアルフォンスがそんな言葉を紡ぐとも思えない。エドワードが話題を探した結果、思い出されたのが昨日の光景だったのだろう。
「君もそう思うかい?」
彼女は綺麗かと尋ねると、エドワードは更に困惑したようだ。何故そんなことを聞くのか、とでも言いたげな表情を浮かべつつ口を開く。
「オレは良くわかんねぇけど、着飾ってて華やかだし、大佐はすげぇ好きそうだよな。あーいうタイプ」
やはりエドワードは昨夜の女をロイの恋人だ、と思っているらしい。予想が当たったが少しも嬉しくなかった。
「確かに、嫌いではないがね」
それはそれで事実なので、一応頷く。確かに、女の好みで言えば昨夜の女はそれなりに好みと言って良かった。……かつては、という一文が必須ではあるが。
何しろ、今現在自分が意中の相手は目の前の少年だ。昨夜の女のようになまめかしい声も、肉感的なまろやかな身体も縁遠い。
「だよな。どーせ大佐のことだから、あぁいう女の人たちととっかえひっかえつきあって、恨み買いまくってんだろ」
「そんなことはないよ」
確かに、そんな時期がなかったと言えば嘘になるがそれを言う必要はないだろう。それに、今は『そんなことはない』のは事実だった。
「どうだか。 なんつーか、水を得た魚って感じで女の人口説き回ってそうだけどな」
「……水を得た、ね」
以前は確かにそうだったかも知れない。恋をゲームのように楽しんでいた。それこそ、水を得た魚のように活き活きとしていたかもしれない。当時はそれが楽しいと思えていたからだ。
けれど、今は違う。
正直なところ、どうして目の前の子どもに心を奪われたのかは自分でも良くわからない。彼の視線に気付く前は、そんな風にエドワードを見た記憶もない。そもそも彼は子どもで、恋愛対象になるはずがなかった。自分はこれまで完全異性愛者で、当然同性相手に恋したこともない。
だと言うのに、気付けば自分も彼に恋していた。予想外としか言いようがないし、愕然とした。だが、事実は事実だ。
「なんだよ。違うって言いたいのか?」
「残念ながら、今の私は水を得た魚と言うより、溺れる魚だからね」
「なんだそりゃ。魚が溺れるはずがないだろ」
けれど、実際自分は溺れようとしている。彼に。こんなにも幼い、自分の気持ちに気づきもしないこの少年に。否、もう溺れているかも知れない。
そしてきっと自分は更に深く溺れるのだろう。それは確かな予感だった。昨日よりも今日、今日よりも明日、自分はより一層彼に惹かれていく。溺れていく。思いは募るばかりだ。
「私も、そう思っていたよ」
かつては恋に溺れたことなどなかった。楽しみながら、けれどいつでも冷静でいられた。恋に本気で溺れる人間は愚かだと、そんな風にすら思えていた。笑い話にもならない。
けれど、今はこう思う。
いつまで、自分はこの少年にとって物わかりの良い大人でいられるだろう。ただあこがれるだけの、そんな存在で有り続けられるだろう、と。
自分から彼に恋を告げることを考えたことがある。けれど、どう考えてもエドワードが自分の言葉を信じるとは思えなかった。
エドワードは自分を恋愛にだらしのない男、と考えていることが今日の会話でも実感できる。そんな相手に愛を語られても、からかわれたと思うのが関の山だろう。
ならば自分が待つしかない。今はまだ、待つことができる。
エドワードがもう少し大人になる日を。
或いは自分に恋を告げる日を。
――――けれど、それがいつまでなのか、それは自分にもわからない。
「なんだよ、大人ぶって」
「実際大人だからね」
口をとがらせ、不満を言う彼が愛しいと思う。幼さの残る仕草だが、素直な彼らしいとも言えた。
「オレだってもう大人だ」
「そう言っているうちは子どもだよ」
ムキになって言いつのるエドワードに、微笑んで告げた。だから、早く大人になって欲しいと、そう心の中で身勝手に呟く。
今は待てる。待つつもりでいる。
けれど、待つよりも奪う方が簡単だということを自分は知っている。
何より、待てば必ず彼が手に入る、という保証はない。それこそ彼の恋情は多感な時期だからこその疑似恋愛であるかもしれず、時の流れと共に恋心は消滅していくのかもしれなかった。
一方、奪えば彼はすぐにでも手に入る。自分だけのものになる。
ロイがその気になりさえすれば、それはとても容易なことだ。望むままにこの手を伸ばし、エドワードに触れてしまえば良い。そこに彼の意志は必要ない。
例え自分に恋しているとしても、力づくで彼を手に入れようとすればエドワードは必ず抗うだろう。恋しているからこそ、反動でより一層自分を憎むかも知れない。けれどそれすら、甘美な誘惑だった。
そうなれば、いつでも彼は自分のことを考えるだろう。自分のことだけを。
今も心の片隅で、今夜にでも奪ってしまおうか、と思う自分がいる。彼に逢うたびに、声を聞く度に誘惑の声は増えていく。
自分が誘惑に負けるのが先か、彼が大人になるのが先か。
エドワードにとっては後者の方が幸福であるはずだ。だから、今は待つ。待てる限りは。
それは無限の時ではなく、おそらくはあまりにも短い有限の時だ。
そしてどちらの結果になったとしても、より深く、自分は更に彼に溺れていく。どこまでも。いつまでも。
その日を、きっと自分は待ち望んでいるのだろう。いつか必ずやってくる、そんな未来が。
「子どもじゃねぇっつってんのに」
不満気味に言葉を重ねるエドワードに、苦笑を浮かべるしかない。大人の気持ちなど、何一つわかっていはない真っ白な子ども。綺麗なのは昨日の女ではなく、彼だ。そしてそんな存在を自分は汚したがっている。
けれど、それも仕方のないことだろう。もう後戻りは出来ない。だから、進むだけ。そしてどちらの結果になるかは、まだわからない。
それは遠くない未来だ。その日を夢見ながら、ロイはエドワードの機嫌を直すために机の引き出しを開けた。
資料室の本の他にも、彼が探していた文献を個人的に用意しておいた。これで笑顔を見せてくれるだろうか。
見せてくれると良い。そうしたら、もう少し。もう少しだけ、待っても良い。
けれどもし、笑顔を見せてくれないならば、どうしてしまおうか。
身勝手な自分の思惑に罪悪感を抱くこともないまま、ロイは口元に小さな笑みを浮かべ、エドワードに文献を差し出した。
END
