夢鏡
4
数日が、きわめて見た目は平和に過ぎて行った。
相変わらず、アルフォンスの戻る明確な方法は分からない。毎日毎日、エドワードは色々と調べている様子だが、一向に明るい顔は見せてくれなかった。
もっとも、アルフォンスは、といえば、それなりにこちらの世界にも順応し始めていた。戸惑うことも多かったけれど、慣れてしまえば相似世界だからどうにでもなる。こちらの世界の学術書などは新鮮で、単純に面白かった。
肉体に二人の精神が入っている状態は確かに良くないのだろうが、普段はそう気にならない。そういうものだ、とすでに納得してしまった為だろう。
不意に心の中でもう一人の自分と会話できるときもあるが、それは実にごく希だった。ちなみに、この逆の現象も起こるときがある。自分の意識はあるのに、身体は自分の思い通りにならない。
当然、その間は自分ではなく、もう一人の彼が身体の所有者という事になる。つまり現在、自分たちは一つの身体を交代で使用している状態というわけだ。
片方の意志で動いている間、もう片方には大抵、記憶がない。記憶があるときならば心の中で会話ができる。例えるならば、片方が身体を使用している間は残り片方の精神は眠りに落ちている状態のようだ。たまに起きているときがあり、その時だけは心の中で会話が交わせる。
細かいことは分からないが、感覚的にはそんな感じだ。
最初は自分がこの身体を支配している時間の方が圧倒的に長かったけれど、最近はそうでもない。日を追うごとに逆転している。
と、言うよりも今ではアルフォンスが意識がある時間はひどく短くなっている。三時間がせいぜいというところだ。
(…もうそろそろ、限界って事かな)
ベッドに寝転がりながら、漠然とそんなことを考える。理由は分からない。理論も分からない。けれど、本能が告げるのだ。もう、期限は目の前なのだ、と。
もし、一つだけ根拠をあげるとすれば夢の中に存在する扉だろうか。
精神的に、ではなく、身体が眠りにつくと、毎日夢を見る。それは決まって、二人の自分が出てくる夢だ。
起きているときは会話ができない分、色々な話を自分たちはした。…もっとも、大抵の話題はエドワードのことなのだが。
それはともかく、その夢は暗闇の世界なのに、扉が一つ、必ず存在している。
それはひどく大きな扉で、そして日ごとに近づいてくる。昨日の夢の中では、とうとうそれは目の前に迫っていた。
その扉は何だろう、という話も何度かした。互いに扉の正体は分からなかったが、ある日もう一人の自分が茶化して言った。
―――もしかしたら、世界と世界を繋ぐ扉かも。
こちらの世界と。あちらの世界を繋ぐ扉。
彼は本気で言ったわけではない。けれど、そうかも知れない、と思った。
否、そうに違いない、と思った。
根拠はない。けれど、その扉を見るたびに感じる既視感がある。自分はこの扉を知っている。
おそらく、自分はあの扉を開いたのではないだろうか。そして、あちらの世界から、こちらの世界へと精神だけがやって来た。
誰にも証明はできないし、説明もできない。けれど、漠然とそれが真実だとアルフォンスは感じている。
(ずっと、この世界にいたいんだけどな)
必死に研究をしている様子のエドワードには悪いけれど、本気でそう思う。この世界で、ずっと彼とともに暮らしていたい。
父は行方不明で、母は死んだ。ずっとずっと、アルフォンスにはエドワードだけが世界の全てだった。けれど、このままではきっと自分は元の世界へと強制的に戻ってしまうのだろう。或いは、他の世界があり、そちらへ行くのかも知れない。
けれど、彼と離れたくない、と切実に思う。エドワードさえいてくれるなら、何もいらない。
全てを捨てても良い。
(言ったら、兄さんは怒るだろうけど)
だからこそ、自分は言い出せないでいる。
エドワードが調べなくても、おそらく自分は元の世界に強制的に戻るだろう事を。
無論、もしトントン拍子に話が進めば、エドワード自身が戻れる術が見つかるかも知れない、という非常に甘い期待があることも事実だ。ただし、可能性は限りなく低いが。
「アル? 寝てるのか?」
ぼんやりと考えていたからだろう。眠っていると思ったのか、エドワードに声をかけられた。
「起きてるよ、兄さん」
起きあがりながら答えると、そっか、と笑う。その笑みがひどく儚げに見えた。
(こんなに、華奢だったっけ?)
実際は華奢、という程ではないのだろう。それなりに筋肉もついている身体だ。けれど、雰囲気が儚い。彼が弱くないことは知っているのに。
(この身体が、大きいからかな)
アルフォンスの身体はエドワードよりも余程大きい。それがエドワードは面白くない様子だが、こればかりはアルフォンスにはどうにもならない。おそらく、あちらの世界でも自分が成長すればこうなるのだろう。
「研究は進んだ?」
尋ねると、静かに首を横に振る。そう、と頷いた。
「でも必ず、戻してやるから」
繰り返し、彼は同じ台詞を言う。どうせなら、もっと別の言葉が聞きたいな、と思った。
もうすぐ、自分はこの人に逢えなくなるかも知れない。否、きっと逢えなくなるのだろう。不意にこの世界にやってきたときのように、突然、この世界から自分の精神は姿を消すのだ。きっと。
それならば、せめてもっと別の台詞が聞きたい。もっと色々な彼の表情が見たい。
勿論、これで永遠に逢えなくなるわけじゃないことくらい、分かっている。決してそんなことにはならない。彼と逢う為ならば、いくらでも努力しよう。多分、エドワードだって同じように努力するはずだ。
だから必ず、自分たちはまた逢える。自分たちの世界で。
―――けれど。
それでもこれからすぐにやってくるだろう束の間の別れが辛い。どうして時は止まらないのかと、そんな理不尽なことを思うくらいに。
「兄さん」
呼ぶと、何だよ、とエドワードが微かに笑った。大人びた笑顔。それはこちらの世界にやってきて初めて見た彼の表情だった。…或いは、自分と旅をしていた三年間の間に身につけた笑みなのかもしれない。
「兄さんが好きなんだ」
言うと、何言ってるんだよ、と途端に照れた様子で笑う。その表情には見覚えがあった。そんな些細な事実に胸が痛む。これから、自分の知らないエドワードの表情はきっと増えていくのだろう。
それをいくつ、自分は知ることができるのだろうか。
「…本当に、好きなんだ」
立ち上がり、笑って流そうとする彼を背中から抱きしめる。小さな彼はアルフォンスの両腕にすっぽりと治まった。
「アル」
戸惑っているのが背中越しでも分かる。言葉を探しているようだ。
「知ってたんでしょう、兄さん。兄さんは、賢いから」
「…何の、事だ…?」
問い返す声が震えている。それで、やっぱり知っていたんだ、と思った。
「ボクが、兄さんのことを好きって事。抱きたいって、そう思ってること」
抱きたい、と言葉にした途端、エドワードの身体が狼狽したのか、びくりと動く。構わず、耳元で囁いた。
「好きなんだ、兄さん」
「…お前は、弟だ」
零れるのは否定の言葉ではなく、ただの現実。この人はやっぱり、自分には甘いなと心の片隅で笑った。
「暴れても良いよ」
会話としてかみ合わない言葉を口にする。けれど、賢い兄は自分が何を望み、何する気かを理解しているに違いない。その証拠に、身体が完全に固まっている。
「暴れても、やめてあげることはできないけどね」
告げて笑う自分は、きっと悪魔に似ていた。