夢 鏡








 幸い、と言うべきなのだろう。一体どうなっているのかは、やがて事態を把握したらしいエドワードによってだいたいの事情が解明された。
 最初に、現在のアルフォンスについて色々と聞かれた。無論、それに対してアルフォンスは事実を述べる。
 例えば、自分はどうやら三年間の記憶を失っているらしい、ということ。その三年間、自分とエドワードは旅を続けていたのだと聞いていること。その間、自分は人間の姿を持たず、鎧姿だったことも写真で知っていること。…ただし、記憶はないから自覚はないことも伝えた。
 すると、エドワードはアルフォンスが人間の姿に戻ったことをひどく喜んだ。良かった、と何度も何度も呟いた。
 記憶がない、と告げても、忘れて良いんだ、と微笑んだ。その微笑はどきりとするほど儚くて、そしてひどく綺麗だった。
 そうして、現在はエドワードに逢いたくて再びイズミの元で修行をしていること、気付いたらここにいた、という経緯を話す。
 話ながら、だんだんと頭が痛い理由だけは思い出すこともできた。昨日は雨が降り、イズミの家で雨漏りが発生した。今日は晴れていたから、それなら、とアルフォンスが屋根の修理を申し出た。
 そうして。
 油断していたのだろう。足を滑らせたことは覚えている。
「つまり、屋根から落ちたんだな?」
「多分、そうなんだと思う」
 滅多にしないミスだが、それでも人間、誰にでも失敗はあるものだ。落ちた拍子に頭を打ったのは間違いない。
「…同じ行動を取った、ってわけか」
 はぁ、と盛大にエドワードはため息をつきながら、そんな意味不明の言葉を呟いた。
「何?」
 問うと、エドワードは説明を始めた。
 曰く、この世界は自分たちが住んでいた世界とは別世界なのだ言う。
「どういう事?」
 アルフォンスの疑問を当然と思ったのだろう。丁寧にエドワードはこの世界について述べた。
 ここは真理の扉の奥に存在していた、もう一つの世界。そっくり同じだけれど、別世界なのだと。
「人間の構成は同じだけど、国名は違う。人間という存在の進化過程は同じだけど歴史は大分違うって感じだな」
 何より、と彼は言った。
「この世界には、錬金術は存在してない。変わりに、科学が飛躍的に進化してる」
「錬金術が、存在しない…?」
 考えてもいなかった言葉に、呆然とする。その傍ら、その声は自分の声ではない、ということはもう理解していた。
 少なくとも、昨日までの自分はこんな声音ではなかった。当たり前だ。自分の実年齢は十五歳ということだが、肉体年齢は十二歳。まだ声変わりはしていなかったが、この声は明らかに声変わりしている。
「考え方として、ないわけじゃないけどな。でもここでの錬金術は、化学じゃなくてペテン扱いだ」
「本当に?」
 問いながら、だがそれは事実なのだと、もうアルフォンスも分かっている。少なくとも、こんなことを偽ってもエドワードには何の特にもならない。即ち、彼の言葉は事実でしかあり得ない。
「この世界はあっちの世界と良く似てる」
 例えるなら、鏡の世界だな、とエドワードは言った。見た目は本当に良く似た世界。そして、人間もこちらの世界とあちらの世界で、良く似た人間が存在している。正確には、似た人間ではなく、本人そのものが。
 本人だから、当然姿は瓜二つ。まるで双子がこちらの世界とあちらの世界に別れて生まれたかのようだ、と。
「勿論、全く同じ人生を歩んでる訳じゃないから、多少性格形成は違ったりするみたいだけどな。少なくともオレの場合、こっちのオレは生身の手足だったわけだし」
「何、それ。じゃぁ、もしかして…」
 自分にも、良く似た人間がいる、という事だろうか。この世界に。この、異世界に。
 まさか、と思う。そんな、まさか。
 けれど、それならば自分の声が低い理由にも説明がつく。
「理由は分からないけど、お前は入り込んだんだ。こっちの世界のアルに」
 それはあり得ないことではないのだ、と肩を竦めてエドワードは告げた。かつて、彼自身も経験したという。
「こちらの世界に来て、こっちの世界のオレの中に入り込んで。…だけど、こっちの世界のオレは死んだ」
 死んだ、とう言葉に息を飲んだ。目の前のこの人が死ぬ、なんて。そんなことはアルフォンスには耐えられない。
「その衝撃で一度はそっちに戻ったんだけどな。…ま、色々あってこっちにまた来ちまったわけだ」
「こちらの世界の、ボク」
 ひどく不思議な気分だった。確かに、世の中には良く似た人間が三人いる、と言うけれど、まさか自分がもう一人いるなんて思ってもみなかった。
「こっちのアルも、昨日この家が雨漏りすることに気付いて修理する為に屋根に上ったんだ」
 なるほど、確かにエドワードの言うとおり、こちらの世界の自分とあちらの世界の自分は同じ行動を起こしたらしい。そうして、やはり同じく足を滑らせたのだろう。そういえば、手足が少しばかり痛む。とはいえ、たいした痛みではないから骨折などはしてないらしい。丈夫な体だな、とぼんやりと思った。
(それにしても)
 大変なことになったな、と思う。
 どうしてなのかは分からないけれど、自分はその衝撃の為なのか、こちらの世界に存在する『自分』の中に精神が入り込んでしまったらしい。
 視線を落とし、自分の掌を見た。本来の自分の手より、若干大きい。握って開く、その単純作業を繰り返した。この身体はアルフォンスの意志通りに動く。
 今、この身体を動かしているのは自分だ。この世界の、本来のこの身体の持ち主ではない。
 何故か、先ほどの声は聞こえない。あれはつまり、本来のこの身体の持ち主。つまり、この世界のアルフォンスのものだったのだろう。
(二重人格って、こんな感じなのかな?)
 微かに首を傾げ、ひどく悠長にそんな事を考えた。一つの身体に、二つの意識があるのだから一種の二重人格状態には違いない。
 別世界の自分という、ひどく不可思議な精神の同居。
「鏡、見せてくれる?」
 言うと、エドワードは机まで歩いていき、引き出しをごそごそと探した。やがて手鏡をアルフォンスに差し出す。
 受け取り、覗き込んでみるとそこには成長したらこうなるのだろうな、という姿の自分がいた。こちらの世界の自分はどうやら順調に成長しているようだ。
 事実は飲み込めた。…飲み込めたと、思う。
 平行して存在する二つの世界。それぞれに存在する、酷似した人間。否、同じ人間。二人の『自分』。
 そして同じ行動を起こし、自分の精神は本来の自分ではなく、こちらの世界の自分へと入り込んだ。―――つまり、そういうことだ。
「ってことは、あっちの世界のボクには精神が今は存在しないって事だよね」
 状況を整理すると、そうとしか考えられない。この世界の自分の精神も、ここに留まっているのだから。
 あちらの世界には、自分の肉体だけが存在していると考えるのはごく当たり前のことだ。
 だが、そのことを今までエドワードは思い至らなかったらしい。瞬間、顔面が蒼白になった。
「アル、今すぐ戻れ、何が何でも戻れっ!」
 怒鳴られても、戻る方法などわからない。どうすれば良いのか、見当も付かない。
「…兄さんが戻れたのと同じようにすれば、戻れるかもしれないけど…」
 試しに、一番有効そうな方法を口にしてみたが、エドワードは大仰に首を横に振った。
「駄目に決まってるだろ!」
 それは確かに、当たり前だろう。エドワードが戻れたのは、こちらの世界のエドワードが死んだ衝撃の為だ。同じ事を実行するとすれば、この世界のアルフォンスも死ぬことになる。エドワードとしては頷けるはずもない。
 うんうんと唸りながら、エドワードは真剣に考え込んでいる。
 聞けば、現在エドワード自身も、元の世界へ戻る為に色々と調べている最中だという。だが、今のところ手がかりは皆無らしい。
 確かに肉体と精神、両方を異空間へ移すわけだから難しくて当然だろう。だが、裏を返せば片方だけなら多少容易になるはずだ、とエドワードは考え込みながら言った。
「必ず、元の世界にお前を帰してやるから」
 その真剣な眼差しを受け、けれど気が付くとアルフォンスは本音を口にしていた。
「ボク、この世界にいたいな」
「アル?」
 何を言うのだと、エドワードが問う。けれど、どうして問うのかと逆に聞きたくなった。
(だって、この世界には兄さんがいる)
 誰よりも、何よりも大切な兄がいる。
 あちらの世界には、兄がいない。それならば、この世界にいた方がずっと良い。例えあちらの世界の自分の身体が死を迎えるとしても。
 だが、さすがにそれを口にすることはできない。記憶はないと言っても、自分の身体を手に入れる為にエドワードが苦労に苦労を重ねていたことを聞いている。
 けれど、そんな身体を放棄してでもこの世界にいたい、と思ってしまうこともまた事実だった。
 あちらの世界。本来の、自分たちの世界。その世界を、無論アルフォンスは愛しい、と思う。
 あちらの世界には、イズミもいる。シグもいる。メイスンもいる。ウィンリィも、ピナコも。たくさんの大好きな人達がいる。けれど、エドワードはいないのだ。彼がこちらの世界にいる限り、彼にあちらの世界で逢うことはできない。そして彼が戻ることは、自分の精神だけが戻ることよりもずっとずっと難しい。
 ―――それなら。自分が、この世界にいれば良い。
 大切な他の存在全てと、兄を交換しても良い。それほどまでに、アルフォンスにとってエドワードはかけがえのない存在だった。
「無茶言うなよ。第一、一つの肉体に二人分の精神なんて、無理がありすぎる」
 けれど彼の台詞はもっともで、だからアルフォンスも頷くしかない。それこそ、本来のこの身体の持ち主であるもう一人のアルフォンスならば冗談じゃない、と思うだろう。
「……でも、戻る方法がわからない」
 永遠に分からない方が良い、という本音を隠して、ぽつりと呟いた。
「見つけるって言ってるだろ。…オレを信じろ」
 うん、と小さく頷く。信じてる。誰よりも、あなたのことを信じてる。
「多分、身体には相当負担がかかるはずだ。一刻も早く戻れるように、何とかしてやるから」
 誠実なその声に、もう一度アルフォンスは頷いた。
 ……頷きたくなど、なかったけれど。