しとしとと雨が降る。
静かに、絶え間なく。
それはそんな、夜のおはなし。
優しい雨
足と腕が痛み、疼いて眠れない。
暗闇の中、不意にまぶたを開きエドワードはそっとため息をついた。
(だから雨は嫌いなんだよな)
仕方のないことではあるが、季節と土地柄、そうでなくても夜は冷える。更に雨も降っていればこの手足の痛み、疼きも当然のことだ。
もっとも、それでも外に降っているのが雪ではなく、雨であるだけ良い方なのだろうが。
(それに、痛みはあった方が良いかもな)
そう思い、苦笑する。痛みがなければ、自分は目標をいつしか忘れてしまうかも知れない。薄まってしまうかもしれない。それはあってはならない事だ。
だからこれは、戒めの雨なのだろう。きっと。
痛みが訴える。この痛みはお前の咎だと。
疼きが嘆願する。早く本物の手足を欲しい、と。
だからこそ、雨が降るとき、エドワードはいつも以上に切実に思うのだ。まるで、その痛みに後押しされるかのように。
――――早く、賢者の石を見つけなければ、と。
「兄さん、眠れないの?」
起きていることに気付いたのだろう。不意にアルフォンスに問われ、一瞬返答を迷った。
眠ったふりをした方が良いだろうか、と思う。彼に余計な心配をかけさせるわけにはいかない。
けれどそんなことを悩んでいるうちに、アルフォンスがこちらへと歩いてくる音が響いた。
がしゃん。がしゃん。
その音がエドワードは嫌いではなかった。本来の彼の肉体ではするはずのない、金属質の音。けれど、今。現時点で、その音はアルフォンスの存在証明だ。彼が自分の側にいてくれる、と思うことができる。
だから、嫌いではなかった。
「痛むの?」
間近で聞こえるアルフォンスの声。それには、どこが、という主語はない。
けれど無論、それは機械鎧の付け根について尋ねているに違いなかった。返事を待たずにそう問いを重ねた、ということはアルフォンスには自分が起きているはずだと確信しているのだろう。
昔から聡く、鋭い弟だったけれど、最近はその傾向が顕著になったように思う。
「……別に、平気だって」
誤魔化すように笑って告げたが、アルフォンスは騙されてはくれなかった。
「兄さんの嘘つき」
特に責める口調ではなく、どこか呆れたそれで彼は告げる。いつでも一緒にいるのだから、エドワードの嘘など看破して当然なのかもしれなかった。それでも、エドワードは頷く気にはなれない。
「ホントに、平気だっての。ただ、妙に眼が冴えて眠れないだけで」
痛みなど我慢できる。いくらでも。それに自分は知っている。痛覚とは贅沢なものだ、と。
こんな痛みなど、彼の心の痛みに比べれば些細なものだ。
「無理しちゃ駄目だよ」
「してないって」
殊更心配する弟にそう否定の言葉を返した。無茶など、まだまだ足りない。だって少なくとも、自分は生身の身体を持っている。自分はまだまだ、がんばれる。がんばらなくてはいけない。
彼の肉体を取り戻すその日まで。いくらでも肉体など酷使できる。
「痛いなら痛いって素直に言って良いのに」
「本当に、平気なんだってば。こんくらい、何ともない」
安心させるために微笑んだが、この暗闇では表情などきっとわからないだろう。アルフォンスには目があるわけではないから、どんな風に視覚が存在するのかは良くわからないけれど。
「でも雨が降ると兄さん、いつも辛そうだよ」
さすがに良く見ている。確かに雨が降ればいつも痛むし疼くから、それが表情に出ていたのだろう。隠しているつもりだったのにな、と内心思うが口に出せるはずもない。
「気のせいだよ、アル。オレは平気だから」
だって、今もこうしてこんなにも近くに彼がいる。
だから自分は平気だ。いくらでもがんばれるし、がんばろうと思える。
彼さえ、側にいてくれるのなら。
大事な、大事な弟。自分の命よりも大事なひと。自分の咎で失った身体を、必ず取り戻してみせる。
「本当に、頑固なんだから」
結局、アルフォンスはエドワードの嘘に騙されてはくれなかったが、それ以上言及することはなかった。言っても無駄だ、と判断してくれたのだろう。エドワードとしてもそんな会話を続けたくはなかったからありがたかった。
しばらく、沈黙が支配する。聞こえるのは外の雨音だけ。しとしととひたすらに雨は降り続ける。
「雨、良く降るね」
「そうだな」
実際、昨日の夜から雨はずっと降り続いている。おかげで自分たちは旅を続けることもできない。なにしろ今朝方土砂崩れをおこしてしまい、列車が不通になってしまった。運が悪かったとしか言いようがない。
今すぐに有効そうな情報も手元にはない、という事実は救いになるのかならないのか微妙なところだが、ともかく自分たちはそんなわけで丸一日、この宿にいた。
小さな村で、図書館もない。当然、時間を潰すための本も存在しなかった。せめて大きな町であれば、古本屋あたりで本を買い込むことができただろうに。
「明日には晴れると良いけどな」
今度は素直にため息をついた。天気についてなら、いくら愚痴を言ったところで問題ない。ただ、自分の手足についてだけは伝える気がない、というだけの話だ。
「そうだね。このまま雨が降り続けたらまた別の場所が土砂崩れになっちゃうかもしれないし」
「嫌なこと言うなよ」
いかにもありえそうな事だったから顔を思わずしかめた。そんなことになったら、更に旅に出るのが遅くなってしまう。それはアルフォンスの身体を取り戻すときが更に遅くなることを意味していた。
無論、急げば叶うという保証はない。けれど、少なくともこの村でじっとしているよりは旅をしたほうが可能性は広がる。
可能性を求めて、いつでも自分は歩いているのだ。その為に、この手足も手に入れたと言うのに。
それなのに、今はただ前へ進むことすらままならない。
勿論、いつか雨は止むだろう。それは明日なのか、明後日なのか。一週間後なのか。それは、今のエドワードにはわからないけれど。
けれどそのときを待つ時間が惜しい。一刻でも、一秒でも早くアルフォンスに元の姿を得て欲しいと切実に思う。
そこまで急がなくて良い、とアルフォンスはきっと言うだろうけれど。
「……なぁ、アル」
「何?」
「お前に触れて良いか?」
言うと、アルフォンスが微かに首をかしげたらしいことが聞こえてくる音で分かった。
「良いけど、どうしたの?」
「別に。ただ、触れたいんだ」
左手を伸ばすと、ひやりと金属に触れる。冷たく硬い鋼鉄の身体。弟の器。
――――彼は、ここにいる。
それは自分のエゴに過ぎない。それは分かっている。それでも、その事実はどれだけエドワードを救っていることだろう。彼がいなければ、自分は歩くことなどできなかった。進むことなどできるはずがなかった。
だからこそ、理解している。
彼の身体を取り戻したいと思うこともまた、エドワードのエゴに過ぎないのだ、と。
どんなことをしても。どんな犠牲を払っても。自分は自分のために、アルフォンスの身体を取り戻したいのだ。決してそれは自己犠牲の精神などではなかった。
「兄さん?」
不思議そうなアルフォンスの声。けれど返事はせず、彼の掌を撫でる。大きな掌。けれど、自分の知る掌は自分と大差なく、そして自分と同じように暖かいものだった。
自分が愚かな思惑に捕らわれなければ、今も彼はその身体のままだったはずだ。自分が愚かすぎたからこそ、彼はその全てを失ってしまった。
後悔なんて、いくらしてもしたりない。だからやはり、雨の連れてくるこの痛みは必要なのだ。己の罪と向き合うために。
「兄さん、ボクもベッドの中に入っても良いかな?」
尚も手を離さないエドワードをどう思ったのか、そうアルフォンスに言われて少し驚く。けれど、断る理由もなかったから頷いた。
「そりゃ、良いけど」
アルフォンスには疲労が存在しない。暑さも寒さも。だから彼はベッドで横になる必要が全くなかった。その彼が、エドワードと同じベッドに潜り込みたい、とは実に珍しい申し出だ。
がしゃん、とまた金属音が響く。雨の音も相変わらずだった。
「うーん、やっぱり二人だときついね」
「そうだな」
やがてアルフォンスがベッドに座り、そのまま足を伸ばす。ベッドのサイズはシングルだったからアルフォンスの言うとおり二人では狭すぎた。だが、頷いたものの実際は
窮屈だとはさして思わなかった。
アルフォンスと身体を密着させ、その冷たい身体を全身で実感する。彼の冷たい身体。自分の冷たい片手と片足。それでも、今自分たちは確かに存在している、という事実。
(昔は、良くこうやって同じベッドで寝たっけな)
二人でこうして身を寄せ合って、一つのベッドで眠った。
それは懐かしい、幸福な記憶だ。それぞれのベッドがあるのにと、何度母親に笑われただろう。エドワードがアルフォンスのベッドに潜り込むこともあったし、その反対もあった。互いの体温が心地良く、一緒に眠ると安心した。
ぐっすりと二人で眠って。そうして、朝起きると母親が笑いながらおはようと告げる。そんな日々。
あの頃は、そんな幸福が永遠だと信じていた。アルフォンスがいて、母がいて、自分がいて。父は旅だったままだったけれど、確かに幸福だった。この上ない贅沢な時間を、自分は当たり前に過ごしていた。
「なんか小さい頃思い出すよね」
同じ事を考えていたのだろう。アルフォンスの言葉にこくりと頷いた。
「懐かしいな」
「うん。今思うと、甘えすぎかなって思うんだけど。でも、ボク兄さんと一緒に寝るのがすごく好きだったんだ」
「オレも」
もう一度、頷く。時には夜遅くまでベッドの中でいろんな話をしたりもした。錬金術のこと、将来のこと。明日の天気。話題はいくらでもあった。尽きることなく、時にはくすくすと笑い、時には口論になった。それらは全て、今となっては良い思い出だ。
「あの頃は秘密なんてなかったに」
ぽつり、と。呟くように言われて言葉を失う。どうやら、その言葉が言いたくてベッドに潜り込んできたらしい。
「今だって秘密なんてねぇっての」
それは嘘だった。秘密はある。それも、とても大きな秘密が。
決してその秘密を彼にだけは――否、世界中の誰にも知られてはならない。それは自分にとって全ての終焉を意味するだろう。だから、その秘密は自らの墓まで持って行く。
「でも、ボクに弱音を吐いてくれない」
「弱音が思いつかないんだから当然だろ」
不安にならないと言ったら嘘になる。それは分かっているけれど、それでもそう言わずにはいられなかった。だって、自分は兄だ。彼のたった一人の、頼るべき存在。もう彼には自分しかない。自分には彼しかいないように。
兄が弟を守るのは当然のことだろう。その責務を自分は果たせなかった。否、自分の咎で彼の身体すら失った。そんな人間がどうして弱音など言えるだろうか。そんな資格などあるはずがない。何より、自分がそんんあ卑小な人間だとアルフォンスに知られなくはなかった。
「そうやって兄さんはいつもボクに嘘をついて、全部自分だけで抱えようとするんだね」
「嘘じゃねぇっての。ホントに、弱音なんてないんだ。オレは、大丈夫だから」
哀しそうな声音で告げるアルフォンスに向かって、そう慌てて否定の言葉を紡ぐ。
「お前がいるから、大丈夫なんだ」
一人ならば、きっと自分はなにもできなかった。
絶望の淵で一人佇んでいただろう。或いは、自らこの世に別れを告げたかも知れない。彼が存在しない、そんな世界は恐ろしすぎてとても考えられはしないけれど。
「兄さん」
そっと、彼が自分を呼ぶ。その、優しい声音。だが返事をする前に、彼に抱きしめられた。冷たいけれど、それだけではない、その両腕に。
「兄さん」
もう一度、アルフォンスは自分を呼んだ。まるで自分という存在を確かめるかのように強く抱きしめたまま。
暴れることなく、エドワードはその腕に身を任せる。どんな構造になっているのか自分でも定かではないが、互いの身が近ければ彼の声も自然、間近で聞くことができる。愛おしい、その声を。
「兄さん、大好きだよ」
その言葉に自然に笑みが浮かんだ。幼い頃。それこそ、こうして当たり前に二人一緒に眠った頃、お互い良くそう言い合ったものだ。
だいすきだよ。ずっと、ずっといっしょにいよう、と。
「オレもだ」
だからそう呟く。けれど自分は知っている。今も、確かに自分は彼が大好きで。けれど、その『好き』の意味が変わってしまったことに。
それはどうしてなのか、何度考えてもわからない。彼は弟だ。弟なのに。
それなのに、どうして兄弟として以外の愛情を。……恋情を、彼に対して持ってしまったのか。
それは禁忌だ。そしてエドワードにとって最大の秘密でもある。この気持ちだけは、決して彼に悟られてはならない。どんなに彼が聡くても、それだけは。
この抱擁も、きっとアルフォンスにとって深い意味はないのだろう。単純に兄である自分を心配しているにすぎない。それは分かっている。
それでも、今この瞬間泣きたくなるほど幸福だと思う。彼が側にいてくれる。自分を必要としてくれている。その事実を噛み締めることができるから。
そのまましばらく互いにじっとしていた。相変わらず、アルフォンスはエドワードを抱きしめている。ただし、気を使ったのかほんの少し、それは力を弱めていたけれど。
そうして、先ほどと同じように沈黙が広がり、存在する音は雨音だけになった。
冷たい雨、心地良い沈黙。
(知らなかったな)
不意に、そう思った。
(こんなにも、雨音が優しいなんて)
ただ降り続けるだけの雨。きっと冷たい雨だろう。ずっと、雨は嫌いだった。それこそ幼い頃から。
けれど、今はこんなにも優しく聞こえる。それは彼が側にいると実感しているからだ。だから、こんなにも雨音が優しい。
「……あのね、兄さん」
目を閉じ、その雨音に耳を傾けていると彼が再び言葉を紡ぎ始めた。
「幼い頃、ボクらの間には秘密がなかったけど、変わりにたくさんの二人だけの秘密があったよね」
「そうだな」
あの頃。幼く、全てが輝いていた頃の秘密は、二人で共有するためのものだった。他愛のない密約。
「兄さんがボクになんでも話してくれるのが嬉しかったし、秘密を共有するのが楽しくて、誇らしかった。なんていうか、大切な宝物だったんだ。だから」
ぎゅう、と再び抱きしめられる。今度は息ができないほど強い束縛だった。そして囁く。
「だから、内緒にはしないで欲しいんだ。ボクとまた、秘密を共有して欲しい。……我が儘かもしれないけど、ボクにだけは兄さんのこと、全部教えて欲しいって思う」
「アル」
返答に困って、名前を呼んだ。そんな風に乞われるように言われたら、何と答えて良いのかわからなくなる。
「全部、共有してよ兄さん。今のボク痛みを感じることはできないから、その感覚を忘れないように兄さんが教えて欲しいんだ」
それは狡猾としか言いようのない言葉だった。そう言われてしまったら、エドワードに断れるはずがない。狡猾で、そしてこの上なく優しい言葉。
「罪も、痛みも全部ボクと共有してよ」
「……お前には、罪なんかない」
それは自分だけのものだ。弟を人体錬成の道へと誘ったのは他の誰でもない自分なのだから。彼に罪はない。彼はただ、兄である自分に従っただけ。全ての咎は自分だけにある。
「違うよ、兄さん。ボクたちは同罪だ。だってそれを、ボク自身が望んだんだから」
「だけど、それはオレが」
言葉を最後まで紡ぐ前に、アルフォンスが更に否定の言葉を継げた。
「違うよ。違うんだ。兄さんだけの責任じゃない。だってボクは止めなかった。兄さんと母さんとボクと三人で、前みたいに幸せに暮らしたかったから」
けれどもう、あの頃には戻れない。失われた日は返らない。そんな簡単なことを、あの日まで自分たちは知らなかった。
「だからボクたちは共犯なんだよ。今までも、そしてこれからも」
罪を背負うのは自分だけで良い。例え本当にアルフォンスにも罪があるとしても。それでも、全ての咎は自分だけのものだ。
もし賢者の石が見つかって彼が元の姿を取り戻せたら、それで良い。けれど何らかの代価が必要だと言うのであれば、エドワードは自分の全てを差し出すだろう。
代価を支払うのは彼ではなく、自分だけで良い。自分だけが、全てを背負う。その結果、この世から自分が消滅するとしても構わない。それでアルフォンスが彼の全てを取り戻してくれるのなら。
大切なひと。たった一人の自分の弟。誰よりも愛しいひと。自分は非力だけれど、守ってみせる。己の全てと引き替えだとしても。
けれど、それは彼には伝えてはならないことだ。だから、エドワードはもう一つ、秘密を心の奥底に抱え込む。変わりに、微笑みを浮かべた。
「分かったよ、アル。オレたちは共犯だ」
それは何て甘く、魅力的な言葉だろう。その響きに酔いそうになる。
きっとそれは、アルフォンスの望みに対して、ささやかな譲歩にすぎない。言葉の上では共犯だと告げながら、それでもエドワードは罪を独り占めする気でいるのだから。それでも、彼がそんなにも望むなら、卑小な自分の痛みくらいは伝えよう。格好悪いとは思うけれど、アルフォンスは自分に見栄を張るなと、そう言っているのだから。
「ありがとう、兄さん」
「バカ、そんな真剣に言うなよ」
嬉しそうに礼を律儀に述べるあたりがアルフォンスらしい。照れくさくなって文句を言うと彼は笑った。
「……あ、ごめん!」
けれどやがて、慌てた様子で両手を離す。
「ごめん。ずっと抱きしめてたから、体温下がっちゃったよね」
その台詞で彼が安心して、それから不意に現状を思い出したらしい、と知った。確かに、体温は抱きしめられる前より若干下がっているかも知れない。けれど、寒い、とはやはり思わなかった。
「兄さんっ?」
だから、今度はエドワードが両手を広げて彼を抱きしめる。アルフォンスはひどく驚いたらしく慌てた様子だ。
「駄目だよ。兄さんの身体が冷えちゃうよ」
「もう少し、こうさせてくれよ。……オレの痛みも分けるから、お前の体温も分けてくれ」
目的を、忘れたわけでもないけれど。今だけは、二人寄り添って静かな時間を甘受したい。
――――もう少しだけ。
せめて優しい雨が降る間だけ、このままで。