雨音で目が覚めた。
 
 それは決して激しい音ではなかったし、足や腕が痛むわけでもない。ただ、なんとなく目が覚めた。
(やべ、また寝ちまった)
 最初に浮かぶのは後悔だ。今日こそ眠らないで帰ろう、と思っていたのに、気がつけば眠っていた。
 すでにこの部屋の天井には見慣れつつある。そんな事実が、少しばかりくすぐったく思えた。
 今は何時だろうと思い、時計を探す。この部屋には掛け時計が一つ。目覚めると必ず最初にその時計を探す癖がいつの間にかついていた。
 時計の針は早朝を示していた。と、なると随分長時間自分は眠り込んでいたらしい。
(まぁ、最近は特に寝不足だったしな)
 そもそも、この町に来たときから自分は眠かった。だから当然、最初は馴染みの宿で今頃は熟睡しているはずだった。
 だが、そうはならなかった。理由は単純明白、今も自分を抱きしめつつ眠っている男が夕食を一緒に、と誘ってきたからだ。
 夕食だけなら、という約束は、結果破られた。誘ったのは男だが、結局頷いたのは自分だ。自業自得だった。
 後ろからエドワードを抱きしめるように眠る男は、実に静かに深い眠りを堪能している。
 微かな寝息以外は聞こえない。それも、これほどまでに至近距離でなければ聞けないだろう。他人の体温は暖かく、心地良い。
 それらは、彼とこんな関係になって知った事実だった。
 知らなければ良かった、と時々思う。人の体温がこんなにも暖かいことも、その腕に囚われるのは存外心地良いということも。それはきっと、この男だからこそ、なのだろう。だからこそ、いつしか、それを当然と受け止めるようになってしまったら、失った時の喪失感はどれほどのものだろうか。そう思うと怖かった。
 自分と夜を過ごすと、いつでも彼こうやって眠る。一度目も、二度目も、それ以降も、そして今回も。それがこの男の癖なのだろう。
 おそらく自分が旅をしている間、この男は他の人間をこうして抱きしめて眠っているに違いない。そう思うとやるせなく、腹立たしい気分になる。
 たぶん、それはこの男に自分が恋しているからだ。もっとも、そうでなければこんな風に夜を重ねるはずもない。まさか自分が同性相手に足を開くようになるとは思ってもみなかった。そんな事実こそが、自分にとってこの男が特別という証なのだろう。
(こんなはずじゃなかったんだけどな)
 彼と初めて夜を過ごしたときは、まさかこんな未来が待っているとは思いもしなかった。あの日、あの夜。どうしてこんな関係になったのか、未だに良くわからない。
 そうなるのが当然のような、実に不可思議な空気というか雰囲気になり、そして自分も彼も流された。
 翌日は呆然としたし後悔したが、現実は現実でしかなく、諦め半分、開き直りが半分。そんなこともあるよなと自分に言い聞かせた。人生、思いも寄らない出来事に遭遇することなど幾度となくある。これはその一つに違いない。
 そう思うとふっきるのも早く、そんな自分を見てロイは声を出して笑っていた。
 それが今では、イーストシティを訪れた日には彼と夕食を共にし、そしてこの家に向かうのが習慣化している。そのこと自体に不満はないが、泊まる気はないのに気がつくと毎回泊まっている事実がなんとも情けない。
 ――――ホテルになど戻らず、毎回ここに泊まっていけば良いじゃないか。
 にっこり、と笑ってロイは言う。その方が私も嬉しいよ、などと甘い口調で続けもする。
 それはエドワードが揺らぎそうになるほど、魅惑的と言える言葉と表情と声だった。
 だが、その言葉には頷けない。ホテルで弟が待っている。眠ることのできない、大事な弟が。そうなった責任は自分にあるというのに、気楽に自分ばかりが外泊する気にはとてもなれなかった。
 もっとも、アルフォンス自身がエドワードの外泊について、文句を言ったことは一度もない。迷惑をかけないようにねと注意することはあっても、基本的に快く送り出してくれている。
 それでも、どうしても泊まることには積極的になれないでいると、気を使いすぎるのもどうかと思うよ、と一度だけロイに言われたこともある。
 それは確かに、一理あるのかも知れない、とも思う。しかも、こうして結局はこの家に来て、挙げ句眠ってしまっているのだから、独りよがりにも程がある。その自覚はあった。
(どーしよもうねぇな、オレ)
 自嘲しつつ、どうにかベッドから抜け出そうと思ったが、今夜はいつになくがっちり、しっかりと抱きしめられていてそれがどうにも難しい。
 いつもならもう少し緩やかで、彼を起こさないまま家を出ることに成功しているというのに。
 できれば、ロイを起こさずに去りたい。仕事をしたがらない時もあるが、多忙なときはとことん多忙な男だ。それこそ、睡眠時間を削らなくてはならないほどに。
 今はそこまで多忙ではない様子だが、それでも眠れるときに眠った方が良いに決まっている。
(どーすっかな)
 腕の拘束を解かなければ、どうにもならない。それは明らかだが、どうすれば良いのだろう。
 そのうち腕の力が緩まるのを待つのが一番良いのだろうが、それがいつなのか、残念ながら見当もつかなかった。だが、無理に腕を解こうとすれば間違いなくロイは起きるだろう。
 困った。とても、困った。
 エドワードが悩んでいる間も、雨は降り続いている。
 手足は未だ痛まない。その事実は喜ばしい。が、この手足でロイと密着していては、彼の体温を奪っているのではないだろうか。
 そんな疑問が浮かび、不安になってくる。自分を抱きしめて眠っていたのが原因で風邪にでもなったら笑い話にもならない。
 どうすれば良いのだろう。彼を起こさず、離れるには。
 色々考えてはみたものの、名案は浮かばなかった。そして腕の力は緩まないままだ。
 試しに彼の腕に手を伸ばし、できるかぎりそっと拘束が緩まないか試してみたが、びくともしない。もっと力を入れれば緩むだろうが、確実にロイが起きる。
 困った。ものすごく困った。
 小さくため息をつくと、微かにロイが震えたのがわかった。
(もしかして)
 思い浮かぶ疑問。この男ならやりかねない、と思った。
「起きてたのかよ」
 問うと、腕の拘束は緩くならないままだったが、彼が耳元で囁くように言った。
「気がついたようだね」
「そりゃ身体震わせて笑うの堪えられりゃ、誰だって気付くっての」
 むくれつつ言うと悪かったね、とロイが謝罪の言葉を継げる。別に謝罪など必要ない。ただ、意地が悪いと思った。
「起きてたんなら腕、緩めろよ。オレ、ホテルに戻るからさ」
 エドワードの要望に対し、ロイの返答は実に速やかで滑らかだった。
「断る。帰したくないからこうして身動きできないほど抱きしめているんだ。それくらい、気づきたまえよ」
「断るなよ、そこで!」
 振り返りたかったが、腕の拘束はますますきつくなり、少しばかり苦しいほどだ。彼の顔を見ることもできない。背中から抱きしめられた状態で文句を言うのが精一杯だ。
「断る。だいたい、君はいつも私が眠っている間にいなくなるからね。朝も一緒に過ごせたことなどほとんどない」
「……。大佐、まさかとは思うけどさ。もしかしてそれ、本気で不満に思ってたのか?」
 自分以外にも、いくらでも夜を共にする相手がいる男だ。自分一人くらい、夜中や明け方に姿を消したところで、そう問題があるとも思えない。
「大いに不満で非常に不服だとも。つれいないとは知っていたが、雨の日くらいは朝までいてくれても良いと思うがね。君は濡れないし、私も上機嫌の朝を迎えられる」
「朝になったら晴れるとは限らないだろ。このまま朝も昼も雨かも知れねぇし」
「だが、私は上機嫌の朝を迎えられる。雨の日は憂鬱な気分になりがちだが、このまま朝まで過ごせればそんなこともないだろう。実に素晴らしいことだと思わないかね?」
 言っていることが支離滅裂だ。だが、とりあえずロイがこの腕の拘束を解かないつもりだ、ということだけはわかった。
「けど、オレはホテルに戻りてぇんだけど」
「だが私は朝まで君と過ごしたいんだ」
「我が儘言うなよ、大人の癖に。つか、そーいう我が儘はオレ以外に言え。あんたなら、いくらでも叶えて貰えるだろ?」
 溜め息混じりに告げると、更に拘束が増した。本気で苦しくなり、抗議する。
「ちょ、大佐! 苦しいって」
「君が残酷な言葉を紡ぐのが悪い。そんな言葉を紡がれては、何が何でもこの手を離したくなくなると言うものだ」
「いや、苦しいから離せって。せめて緩めろ。頼むから」
 言うと、渋々、といった様子で力が僅かに緩んだ。
「前から思っていたが、君は誤解している。君以外に、こんな我が儘を言う相手など私にはいないよ」
 それは嘘だ。きっと、嘘だ。だって自分は知っている。この男が女好きで、そして女性にとても人気があることを。けれど、その言葉はどこまでも真摯で切実そうに聞こえ、信じたくなる。甘やかしたくなる。自分よりずっと年上の、嘘が上手いだろう男を。
「……今日、だけだからな」
 小さな声で告げると、男は笑う。拘束の手は緩まないまま。
 雨も、やまないままだ。
 朝にはやむだろうか。それともやまないだうか。どちらにしろ、朝になれば、また泊まってしまったと自分は後悔するんだろう。ロイは微笑んで良いじゃないか、と言うのだろう。
(けど、今日だけだ。絶対絶対、今日だけだ)
 今日は雨で、ロイが無能になる日で、だから憂鬱になりやすい日で。――――だから、そんな日だから甘やかしてやるだけだ。
 そう自分に言い聞かせるようにして思いながら、エドワードは目を閉じる。
 拘束する手は我が儘で、そしてどこまでも優しかった。



END




  

我が儘な、優しい手。