空の在処4
「…行くか」
「うん」
脈絡もなく、帰去を告げると、将は不思議そうな顔もせずに頷いた。
最後にちら、と墓石を見たが、無論何の変化もない。
一瞬迷ってから、けれど彼女に別れの言葉を告げるのはやめることにした。
どうせ家に帰れば彼女の写真があるのだから、意味がないと思うべきだろう。そう言えば、部屋を出る時も同じ事を思ったのだと思い出して、一人で苦笑する。
「どうかした?」
その様子を不思議に思ったのか、将が問う。
「いいや」
言いながら歩き出すと、些か納得はしかねたのだろうが、将は再度問うことはせず、後を追って歩き出した。
「何時の便?」
主語を入れず、違うことを将は問う。無論それは、ドイツ行きの飛行機の時間を尋ねたのだろう。
「さぁな、忘れた」
「ホントにわかんない?」
残念そうに言われてしまうと、燎一としては心が痛む。それで仕方なく財布を取りだし、航空券を渡した。それを見れば何便かなど一目瞭然だ。
「ホントに、行くんだね」
「当たり前だな」
「そうだね」
そうして、また途切れる会話。けれど、多分、二人とも気が付いていた。
互いの、―――歩く速度が落ちていることに。
もう、「墓参り」が終わってしまった以上、あとはお互い家路につくだけだ。…それが、ひどく名残惜しい気がする。これが彼に会える、話せる最後のチャンスかも知れないと思うから余計に。
あと少し、もう少し。
ささやかな時間でも、彼と過ごしたいと思う。ひどく、センチメンタルな心理だった。あるいは、真理だろうか。
けれど、どんなにゆっくりでも歩けば進む。進めば、到着する。それはあまりにも当たり前の事実だった。
気が付けば待ち合わせ場所で、家の方向が違う以上、そこで別れるのが自然だろう。もっとも、普通の友人関係であれば、そのまま一緒に寄り道しても不思議はないが。
けれど、たった一言。
彼をつなぎ止める言葉を、燎一は紡ぐことができない。あと、一分もしないうちに駅に到着する今でさえ。何を言えばいいのか、そんな基本的な言葉すら、思い浮かばなかった。元から、燎一には「友人」と呼べる存在自体が過去に存在しなかった。側にいて欲しい人は、―――かずえは何も言わなくても側にいてくれた。当たり前に、いつでも。だから、余計に言葉が出てこないのかも知れない。何を言えば良いのかすら、とっさに判断できない程、自分は彼女に甘えていたし、世間を知らなかった。
そっと苦笑いを浮かべた瞬間、それまで沈黙を守っていた将がいきなり声を上げた。
「…あっ!」
それは大声、と言って差し支えのないもので、あまりの突然さに驚きつつ彼を見ると、彼はひどく嬉しそうに、駅の近くにある、小さな公園を指さした。
「サッカー、やってるよ。見に行こう?」
見れば、それはサッカー、というよりはサッカーボールとじゃれている、という印象の小学生達が数人見えた。多分低学年であろう彼らは、ボールの大きさに振り回されているようにも見える。なんとも微笑ましい、と言うしかない風景だった。
「早く」
将にしては珍しく、燎一の返事も待たずに手を引いてきた。そうして、当たり前のように公園まで走り始める。
ちら、と短い距離を走りながら彼の顔を見ると、真っ直ぐに彼は公園へと視線を向けていた。ひどく、嬉しそうに。 成る程彼は確かにサッカー馬鹿だ。サッカーであれば、それがどんなものでも惹かれてしまうらしい。ひたすら彼らしくて、だから燎一の口元も自然に笑みの形に曲がった。
走ってしまえば、公園までの距離などたいしたこともなく、すぐに到着した。そうして立ち止まってからようやく、将は自分が燎一を引っ張ってきたことを思い出したというか、自覚したらしい。
「あっ、ご、ごめんっっ!」
顔を真っ赤にして、ぱっ、と勢い良く手を離す。
「…いや」
むしろ嬉しかった、とはさすがに言えず、とりあえず否定の言葉を口にしてから、照れを隠すようにサッカーもどきに興じる小学生に視線を送った。
自分がサッカーを始めたのも、あのくらいの年頃だっただろうか。まるで日記のように、くる日もくる日もその日のことをかずえに伝えて、そして彼女が微笑みながら聞いてくれた日々。
「…楽しそうだね」
「そうだな」
技巧など関係ない様子で、見られていることも知らず、子供達はサッカーボールと戯れている。それをただ見ながら、そんな会話を交わした。
そうして、ふと思い出す。
サッカーが、自分は確かに好きだ。今も。昔も。けれど、プライドばかりが先立って、サッカーを好き、という単純な事実が見えなかった時が、確かにあったのだ。
……彼に会わなければ、その状態は続いていたのだろうか。
ほんの数ヶ月前のことなのに、なんだかひどく懐かしい気がした。
成長、と呼べるほどのものではないが確かに変化した「何か」は自分の中に存在している。彼の存在故に。
そんなことを考えていたが、ふと視線を感じて将を見ると、ものの見事に視線が重なった。てっきり彼の事だから、小学生のサッカー(もどき)を夢中になって見ていると思ったのに。
「どうした?」
「…ごめん」
いきなり謝罪され、燎一としてはとまどうしかない。将は、と言えばとにかく恐縮している様子だ。そのくせ、頬は勿論耳まで赤く染めていた。
「…あの、えっと。もう、当分天城とは会えないかも知れないんだな、って思ったら、自然と見ちゃって。…目が、離せなくなって」
そうして、言われた台詞は返答に困る代物だった。まさか存分に見ろ、と言うわけにもいかない。心なしか彼につられて、自分の頬まで紅潮したような気がする。
「あのさ、天城」
「…何だ?」
次はどんな台詞が来るのか。予想ができないだけに、対応に更に困った。
「迷惑だって、分かってるんだけど。言いたい事があるんだ」
「何だ?」
同じ調子で問い返すと、彼は口を開く。けれど、いつもの彼らしくもなく、その後なかなか声にはならない。
「…?」
きょとん、としたまま彼を見つめると、ようやく決心したかのか、ようやくそれは言葉になった。
「…好きだよ」
………。
将の台詞が暫し頭の中で繰り返される。その意味は分かるが、明らかに主語が抜けていた。何しろ相手が将だから、やはり主語はサッカーだろうか、と考える。しかし、そんなことは今更過ぎる事だ。
だとすれば。
考えられるのは次の候補としては、一般的には自分、なのだが。
そうは思うが、しかしまさかそんかことが、とそこでまた思考がぐるぐると巡ってしまい、非常に間抜けな状態に陥っていた。そんな燎一をどう捉えたのか、将はひどく申し訳なさそうに言葉を紡ぐ。
「本当に、迷惑だって、分かってるんだけど。…だから、ホントは言う気、なかったんだけど。なんか、…伝えなかったら、後悔する気がして」
言ってから、本当にごめん、と深々と頭を下げられた。
迷惑ではない、とか、ものすごく嬉しい、とか。そんな言葉も思い浮かばない。なにがどうしてどうなって、将の思考がそうなったのか、疑問ばかりが浮かぶだけだった。
「あの…、天城、やっぱり怒ってるよね。本当に、ごめん」
おろおろと謝罪を繰り返され、ようやく口を開いた。
「…歩くか」
「…うん」
脈絡のない言葉に、けれど将は頷く。二人、そのまま先程のように黙って歩き出した。先程のように駅へと向かい、けれど切符売り場を横目に通り過ぎた。将は不思議そうな顔をしたが文句は言わず、燎一についてくる。
そうして、どれくらい歩いただろうか。その間、ずっと燎一は言葉を探していた。
何を言えばいいのか。どう言えばいいのか。
―――どうすれば、良いのか。