※「鏡世界」続編です。
アニメ1期後、シャンバラ上映前に書いた小説なのでシャンバラにはどう考えても繋がらない話になってます。
それでも大丈夫、というかたのみどうぞ。


◇ ◇ ◇





Spiege lim Spiegel 











鏡の世界で、ひたすらに出口を探している。









 視線を感じた。

 そのことに気付きながらもエドワードは努めて冷静を装い、その視線も無視した。彼は、といえば微動だにせず、自分をそのまま見つめている。
 ぱら、ぱら、としばらくはエドワードが書物をめくる渇いた音だけが響く。
 だが、いくら視線を書物へと定めてもいつも通りの集中力は得られなかった。どんなに気にしないように、と思ってもどうしても気になる。結局、エドワードはため息をつきながら視線を上げた。
「……一体、何だって言うんだよ」
「君を見つめていた」
 返答は静かな声だった。耳に心地良い声。だから余計に困る、とエドワードは思う。もう一度ため息を重ねた。
「それはわかってるっての。何の用事でオレのこと見てんだよ。あんたもそこまで暇人じゃないだろ」
 呆れたように言うと、彼は笑った。口元を少しだけ曲げたその表情は記憶と全く同じ。そんなことを思う自分は滑稽だと思う。
(こいつは、大佐じゃないのに)
 そう何度自分は思っただろう。
 黒い髪。黒い目。端整な顔。その姿全て。声すらも。
 ――――――何もかもが、まるで同一、と言って良いほど、目の前の男はロイ・マスタングに似ている。
 それは当然のこと、と言って良い。多少語弊はあるかもしれないが、彼もまたロイ・マスタングなのだから。
 ただ、住まう世界が違うだけだ。そしてその違いがあまりにもエドワードにとって大きい、というだけで。
「暇は確かにあまりないが、多少の無理をしても君を見ていたい、と思うのだから仕方ないだろう?」
 微笑みを浮かべての言葉に肩を竦める。とたん、小さくぎしりと肩が鳴った。
「あっそ」
 言いながら視線を本に戻して、義手の調子が悪いなと思った。そろそろ、新しい義手にしなければ駄目かもしれない。そんなことを考えつつ、ページをめくる。集中できないことはわかりきっていたが、彼の思う通りになるのが癪だった。早い話、彼は自分の邪魔をしたいのだ、と知っている。
 だが、何がなんでもせめて今、手にしている本くらいは読み終わっておきたかった。自分がこの場所へやってきてから、もう一年近くが経過している。それなのに、わからないことは山のようにあった。
 例えば、複数の言語。この世界の歴史と、それに伴う文化。風習。知識はいくら仕入れても足りない。
 勿論、それらを知ったところで、元の世界に戻れる、という保証はない。
 けれど、まずこの世界で暮らす上での基本的知識がなければ帰る方法を模索することすら難しい。帰るヒントになるかもしれない論文すら、この世界のことを知らなければ理解できないのだから仕方なかった。
 この世界のことを、あまりにもエドワードは知らない。
 まるで、ここは鏡の中の世界のようだ、とエドワードは思う。
自分のいた場所に、世界にとても良く似ているけれど、確かな別世界。なにもかもが同じではないかと、そんな風に錯覚してしまうときすらある。けれど、似ているだけでやはり全ては違うのだ。
 だが、あちらの世界と繋がりがあることを示すかのように、それぞれの世界で瓜二つの人間が存在してる。……目の前にいる、もう一人のロイのように。
 本当に良く似ている世界。けれど、エドワードは元の世界に戻りたい。ここには、アルフォンスがいない。たった一人の、大事な弟が。生きているのかすら、今の自分には確かめる術がない。生きているはずだ、と。そう信じてはいるけれど。
 確かめたい、と思う。この世界は自分の住まうべき世界ではないから、余計に帰りたい、と思うのかもしれない。そうして、必死で今も帰る方法を探し続けている。
 どうすれば。何をすれば、帰れるのだろう。
 本当に帰る方法はあるのか、と時々思うときがある。その思考はエドワードの心を重くする。
 自分はとても無駄なことをしているのではないか、という不安に押しつぶされそうになる。
 それでも、父親がこの世界にいて、しかも再会できた、ということは不幸中の幸いではあるのだろう。自分一人ならきっと途方に暮れていた。なにしろ自分にはこの世界で暮らす基盤がない。
 おまけに、この世界は飛行船という空飛ぶ船が存在するというのに、機械鎧は存在しない。つまり自分一人だったらただ歩く、というそれだけのことすら不可能だった。今、どうにか歩くことができるのは父親が義手と義足を制作してくれたおかげだ。機械鎧に比べて脆く機能も低いが、それでもこの世界の義手より数段良い。つまり、あまり認めたくはないが今自分が動けるのは父親の存在あってこそだ。
 そうして、なんとか自分はこの世界で生きている。それは父親が怪しげな連中と関わっているおかげ、というあまり嬉しくない現実があるからだが、この際仕方がない。何事も都合良く運ばないことくらい、重々承知している。
少なくともこの世界で生きられ、こうして帰るための道標を探せるだけありがたいと思うべきだろう。
 更に言うなら、こうして今も自分を見つめている男と出会ったおかげでこうして膨大な量の本を読むことも可能になった。だから、彼は本来は感謝するべき相手だ。
(そんな気にはなれないけどさ)
 男のことを、エドワードは大抵、あんた、という二人称で呼んでいる。
 ロイ、と名を呼ぶことを男は望んだが躊躇われたし、彼の地位である大佐、と呼ぶことは彼自身に拒否された。
 最初は――そう、出逢ってしばらくは、そう呼んでいた。大佐、と。
 自分の住むべき世界。アメストリスに住まうロイをそう呼んでいたように。実際、彼は若い身空で大佐という地位についていた。
 この世界に錬金術が存在しないことを考えれば、それは異例中の異例、としか言いようがないだろう。それだけに、この男が裏で何をしているのか、想像はあまりしたくないところだ。
 そもそも彼との出会いは偶然だった。ただ、道をすれ違った。それだけのことだ。
 それだけの事だったけれど、それはエドワードにとって、あまりにも大きすぎる衝撃をもたらした。
 歩くことも忘れて、ロイを見つめた。似ている人間がいるかもしれない、と思ったことが確かにあったのに、いざ現実となると思考がまったく動かなかった。
 だから、ただ見つめた。
 あまりにもぶしつけな視線だったからだろう。ロイは何か用があるのか、とエドワードに尋ねた。その声までも記憶と同じで、ますます驚いた記憶がある。けれどこれは自分の知るロイではないと思い当たり、ようやく何でもないんだ、と答えた。――――それで、一度目の出会いは終わった。
 二度目も偶然だった。やはり道を歩いていたら、彼と出会った。彼も自分に気付いたらしく、やぁ、と微笑む彼を見て、違う相手と知りながら浮かべた表情を懐かしいと思う自分がいた。
 軍服姿だったので地位は大佐か、と半分冗談で尋ねると彼は頷き、自分は確か笑った気がする。やっぱり、と呟いたかもしれない。名もその時に全く同じ名だと。彼もまた、ロイ・マスタングという名だと知った。けれど自分は呼び慣れた大佐という地位名で呼んだ。
 最初の頃は問題なかった。偶然が偶然を呼び、時々話すようになった。おそらく、自分は人恋しかったのだろう。父親以外、誰も知らない。この世界になじめきれずにいたから。
 何より、結局の所ロイと話すのが楽しかった。当たり前だ。自分はロイに――ただし、それはこの世界の、ではなくアメストリスの、だけれど――恋していたのだから。 
同性同士で何を血迷ったのか、とも思う。どうしてあの男なのだろう、とも思った。悩んだし、諦めたかった。それでも結局、自分は今もあの男に恋している。だから自分は目の前の男を、良く似た別人に身代わりをきっと求めていたのだろう。だからこそ、大佐、と呼んだ。
 ――――別人なのだと、そう知っているのに。
 それはエドワードの弱さ他ならない。挙げ句、自分はこの世界のロイと寝た。恋する男と別人であり、そして良く似た彼と。
 その頃には自分の事情をだいたい話してあったし、アメストリスに住まう『大佐』と肉体関係があったことをロイは察していた。だからこそ、彼は己を『大佐』とはもう呼ぶな、と言った。
 ――君の呼ぶ大佐は私とは別人だろう?
 それは事実で、だからそう呼ぶことをやめた。確かに、身代わりにされて嬉しいはずがない。けれど、そのその『大佐』ではない人間と自分は未だに肉体関係を持っている。それも、『大佐』よりも余程多く。数え切れないほど。
 もう一度、ため息をついた。それでも更に本をめくる。文字を目で追い、内容を頭の中に叩き込む。けれど、あまりにも長い時間読書していたせいだろう。やけに目が疲れている。何度か瞬かせ、それからついでのように小さなあくびをした。
「最近、あまり寝ていないようだね」
 声をかけられ、唇を尖らせながら口を開く。
「寝かせてくれないのはあんただろ」
 さすがに毎日とは言わないが、週に何度か。それも、ひどいときは明け方近くまで励まれれば、睡眠不足にもなる。年齢も『大佐』と同じはずだから、すでに三十路のはずなのに、どうしてそんなに体力があるのかと不思議でならない。
 無論、睡眠不足の理由はそれだけではなく、エドワードが真夜中まで論文を読んだり、本を読んだりしていることも大きな理由だ。
 そして、それを彼は邪魔しようとする。今のように。
「帰りたがる君が悪い」
 さも当然、と言わんばかりの言葉。傲慢なところまで、本当に良く似ている。
「あんたが何て言おうと、オレはあの世界に帰る。……絶対、帰ってみせる」
「そして弟に会いたい、か」
「なんだよ。悪いのかよ」
 嘲る口調にむっとする。この男は家族の情が理解できないと言っていたから、自分の行動がおかしくて仕方ないのだろう。
「悪いに決まっているだろう。君が私以外のことを考えるのは面白くない」
 大真面目な口調で告げる内容は、赤面したくなるような言葉だ。目の前の男が女を口説いている場面を見たことはないが、これだけの台詞が言えるのなら彼もさぞかしもてることだろう。
「あんたが面白いかどうかなんてオレの知ったことかよ。オレのことはほっといてさっさと寝やがれ」
「冷たい言葉だな。昨夜はあれほど情熱的だったのに」
 からかいの言葉も、努めて無視した。それでもきっと顔は朱に染まっているだろう。自覚はあった。
「今夜も同じくらい情熱的だと嬉しいんだが」
 ぎょっとして彼を見つめる。どうやらロイはエドワードに今日も彼の寝室へ来い、と言いたいらしい。
「……冗談だろ。二日連続なんて、無理だ」
 元々男では受け入れるようにはできていない。その行為はそれだけで身体に負担がかかる。二日連続なんてごめんだった。
「無理かどうかを決めるのは君じゃない。私だ」
 どこまでも傲慢な男。あちらの大佐との違いは、きっとこの男の方がより我が儘で勝手なところだろう。
「君の都合は私の知ったことじゃないな。こちらに来なさい」
 くすりと笑みを浮かべて言う台詞は、先ほどのエドワードの台詞に少し似せていた。
「この家の書物は、君にとって魅力的なのだろう?」
「……っ」
 その言葉を言われると、エドワードは黙り込むしかない。今もこうして目を通している書物は全て、ロイの個人的な持ち物だった。
 元々は彼の祖父が収集していたというそれらは町の図書館より余程エドワードの知りたい情報に溢れている。だからこそ、自分はこの屋敷に毎日訪れているのだ。そうして、――まるで書物と引き替えに自らの身体を売り渡すような真似をしている。
 最初は違った。最初はロイも善意だったのか、なにも求めなかった。だが、等価を求めるのは当然のこと。無論、他の代価があったのなら、それを選択しただろう。けれど、ロイが望んだのは自分だった。
 これだけの書物を所有している家がそうあるとは思えず、あったところで見ず知らずの自分に読ませよう、とは普通思わないはずだ。結局、選択肢は一つしか残されておらず、だから頷いた。
 そして今も、彼が望むなら自分は頷くしかない。渋々ながら立ち上がると、今度は義足がぎしり、と鳴った。どうやら義手だけでなく、義足も調子が悪いらしい。
(まいったな)
 今、父はこの町にいない。昨日出て行ったばかりで、二週間ほど家を空ける、と言っていた。もっとも、あの父親のいうことだから実際は一月くらい戻らないかもしれない。
 そんな状況で、この義手や義足が壊れたら途方に暮れるのは目に見えている。機械鎧に比べれば遙かに単純な造形をしているものの、必要な部品は特殊なものも多く、エドワード一人では手に入れることが困難だった。つまり修理すら自分だけではできない。
 この世界で、自分という人間はあまりにも脆弱だった。錬金術が使えない上に、片手と片足も存在しない。だが、それでもこの場で立ちすくむわけにはいかなかった。
 読みかけの本を本棚に戻すと、ロイの元へと歩き出す。そのたびに、ぎしり、ぎしりと足が鳴った。
「調子が悪いらしいな」
「まぁな」
 見え透いた嘘を言う気にもならなくて頷く。粗末に扱っているつもりはないが、どうしても壊れやすい。
 リハビリは大変だったけれど、機械鎧とは何と便利なものだったのだろう、と今更ながらしみじみと思う。
「……うわっ、何すんだよ!」
 彼の側へと到着するなり、突然抱き上げられた。仰天して文句を言ったが、ロイは涼しい顔をしている。
「歩きにくそうだから連れて行ってやろう、と思っただけだよ。私は優しいからね」
(良く言うよ)
 優しい人間ならば、書物と引き替えに身体を求めたりはしないだろう。そもそも、この男と初めて寝た時など、ほとんど無理矢理だった。脆弱な義手と義足を片方ずつ持つ自分では、健康で力強い男の前であまりにも無力な上、最後はエドワード自身も流された。今更文句を言うつもりはないが、『優しい』とはほど遠い行動だ。
「あまりに調子が悪いようなら、知人に修理を依頼しても良いが、どうする?」
 それは非常に魅力的な言葉だった。彼の祖父が収集した書物を見ても明らかだが、彼は相当裕福な身の上で、更に顔も異様に広い。そして自分の義手と義足は一般には流通していないが、部品さえあればある程度の人間ならば修理も可能だろう。
「……引き替えに、何を望むんだ?」
 暫く逡巡したが、もしも壊れたら非常に困る。そう考えると、結局ロイの申し出を受けた方が良い、という結論が出た。そしてそれにはやはり代価が必要だろう。
「無論、君を。……そうだな、修理が終わるまではこの屋敷に住むことが条件だ」
 家に帰らないことが条件だ、と告げられ、迷わず頷いた。これで当分、夜は塞がれたも同然だ。それでも、もしも義足が壊れたら、この屋敷に来ることもできなくなる。それを思えば頷くしかない。通う手間が省ける、と前向きに思い込むことにする。
 すると、ロイは笑った。ひどく満足そうに。その笑顔に、見とれそうになる。そんな自分を内心で叱咤した。
 ロイはエドワードを抱え、上機嫌のまま歩を進める。廊下に出ると真っ暗だった。だが、ロイにとっては慣れきった場所だ。すたすたといつもと変わらないスピードで彼の部屋へと向かう。
 意味もなく、後ろへとエドワードは視線を動かす。まるで帰り方を模索する自分を象徴するかのように、何も見えない。存在するのは、ひたすらの闇。無意識に唇を噛み締めた。
(それでも、オレは絶対帰る)
 何度も何度も、そう心の中で呟く。必ず、帰る。あの場所へ。
 
 だが、今日はとりあえずその闇に身を沈めるのがエドワードの役目だった。それをロイが望む以上は。


 そして、夜が始まる。長い、快楽の夜が。