シチガツナノカ。



 その日は快晴だった。

 怠い、重い、暑い。
 現在、成樹の思考は以上三点で占められていた。
 無論、それは自業自得だ。わかっている。…わかってはいるが、しかしそれにしても重かった。暑かった。
 しかし、自分と同じ状態のはずの将はのほほん、と成樹に向かって言った。
「今日もサッカー日和ですね」
「……せやな」
 顔は見えないが、おそらく笑顔なのは間違いなかった。彼はサッカーさえできれば上機嫌だから当然なのかも知れない。しかし、ここまで暑いとサッカー日和と言えるのかは、少々謎ではあるが。
 そう思いながらも、成樹は少々間が空いたものの同意を示した。
「きっと、もう部活やってますよね」
「そら、とっくやろなぁ」
 そんな会話をして、溜め息をつく。しかし、やはりお互い自業自得と分かっているから文句も言えない。
 一刻も早く部活に戻りたいなら、今の使命を果たすしかないのだ。…使命と言うより、明らかな雑用だが。
 そう思って、重い、の正体をしみじみと見た。
 自分たちが、今現在必死で運んでいるもの。
 ―――それはそれは立派な、立派すぎる青竹を。
 何しろ、これが重いのだ。しかも大きい。丸太の形をしていれば運ぶのも楽だろうが、これは七夕用のため、そうも行かなかった。つまり運ぶのも多少気を使わねばならないわけで、余計に大変なのだ。
 事の発端は、夕子の思いつきだった。
 これはもう、どちらかというといつものこと、と言うべきなのだろう。何しろ思いついたのは昨日だ、と夕子本人が言っていた。ひらめきの人、と言えば聞こえが良いかも知れないが、結局の所、行き当たりばったりの人だった。それも、悪意がないから余計に質が悪いタイプだ。
 ともかく夕子は昨日いきなり「明日は七夕だ。だからサッカー部で七夕をしよう」という思考になったらしい。もっとも、それですることは、笹に願い事を書いた短冊をくくりつける、それだけの単純なものだと思われるが。
 そうして、早速学校から徒歩圏内にある竹林(笹、ではないのはこの際気にしてはいけないらしい。実際問題、これが竹であって笹ではない、という事実を気にするのはサッカー部員の中でも大地くらいだと思われる)の持ち主に連絡を取り付け、成樹と将が竹を運ぶ役目を仰せつかってしまったのだった。
 ちなみに、なぜこの二人か、と言えば答えは単純きわまりなかった。二人とも、三時間目の授業、つまり英語の時間ついつい居眠りをしてしまったからだ。顧問で担任で、そして担当教科なのだから、夕子がにっこりと笑いながら(しかし目は笑ってない)用事を命じるのは当然と言えた。
 そんなわけで、成樹と将は重く、立派な竹をえっさ、ほいさ、と運んでいるのだ。早くこの用事をすませないと当然ながら部活に参加はできない。成樹本人はともかく、将にそれはあまりにも酷と言える。だからこそ、怠かろうが、暑かろうが重かろうが、地道に運んでいるわけだが。
(…せめて俺が後ろになれば良かったわ)
 そうして、そんなくだらないことを思う。
 自分が先に歩いては、当然ながら将の姿は見えない。当然ながら将には自分の背中が見えているのだろうが、自分が将の姿を見られなければ意味がないのだ。
 後ろ姿でもなんでも、彼の姿を見ているのはとても楽しくて、嬉しい。
 ただ人間が存在する、それだけの事実がこんなにも愛しくなるなんて、ひどく不思議なものだ、と時々成樹は思う。そしてとても幸福なことだ、とも。
 成樹は将に恋している。これはもう、間違いなく事実だ。最初に自分でそのことに気が付いたときは正直愕然として、次に納得して、最後には居直ってしまった。
 好きになってしまったのだから仕方ない。気持ちを変えることはできない。自分も男で相手が男でも、どうしようもないのだ。
 そんな風に思って、ありのままの自分で彼に素直に好きだと告げた。
 その返事は、と言えば実に単純明快の即答だった。
『ぼくもシゲさんのこと、好きです』
嬉しくない、と言えば嘘になる。そりゃもう大嘘になる。しかし、どこまで本気が判断がつかないのも事実だった。
 彼の好き、は多すぎて、自分の「好き」とは違うような気がするのだ。
 例えば「友達として」とか「仲間として」とか。そんな部類の「好き」と恋愛感情の「好き」の境界線が彼の場合は見えない。
 けれど、そう知りつつも自分がかなり舞い上がった。ちょっと顔を赤らめて、自分だけを見つめてくれたりすると、それだけで一日が幸福に過ごせるくらいには。
 つまり、そうして。
 自分たちは一応「おつきあいをしている」関係、ということになるのだろう。
 ほとんどの時間は「友人」であった頃と変わらない。けれど、確かに変化した時間もある。それこそ、単なる友人時代には見られない表情をみることができるようになったし、何度もキスもした。軽く触れるだけのそれも、それから少しばかり上級者向けのものも。
 それらは確かに、「特別」の証で 、だから今、自分はひどく至福の日々を過ごしている、ということになる。
 その一方で、幸福すぎて逆に不安にもなるが、それは贅沢と言うべきなのだろう。

 ―――例え、彼と自分の「好き」の意味が違ったとしても。
 今、幸福な事実に何一つ偽りはないのだから。

                     □■□

 どうにかこうにか無事に竹を部室へと運び、練習に参加できたのはそれから三十分後のことだった。練習に合流してからの時間はあっと言う間で、練習終了は実にあっけない感じがした。
 いつもならここで解散、となるが、無論今日に限りそうはいかない。部室に帰ってみると、いつの間にやら自分たちが持ち帰った竹は色紙で彩られ、「ただの竹」から「七夕の笹もどきの竹」に変化していた。
 そうして、にこにこと嬉しそうに夕子が色とりどりの短冊を皆に配って回りながら、楽しそうに口を開いた。
「みんな好きに願いごと書いてね。ただし、サッカー関係は禁止」
 その言葉に一同はきょとん、とする。サッカー部内の七夕なら、(そして夕子のことだから)願い事は「打倒・武蔵森」あたりを強制的に書かせるだろうと皆思っていたらしい。
 しかし、夕子に言わせると、
「それは私が書くから。みんな一緒じゃつまらないでしょ?」
 ということになるようだ。確かに、何も強制しなくてもほぼ全員がサッカーに関する願いばかりを書きそうだ。
 それがつまらないかどうかはともかくとして、「勝つために練習する」ならともかく「勝つために願う」のは確かに性に合わない。それは他のメンバーもそうだったらしく、それぞれ頭を悩ませながら短冊に願いを書き始めた。
(願い、言うてもなぁ…)
 何を書けば良いのだろう。多分、成樹は今現在が一番幸せな状態だと言うのに。これ以上の幸福を願えと言われても思い浮かばない。
 ずっとこのままでいられますように、と書くのはどうだろう、と思ってみる。
 けれど、「このまま」では駄目だろう。今はとても幸福だが、永遠にこのままではきっと自分は飽きてしまう。変わらない日常はあまりにも退屈すぎて、自分はいつかの日のように、逃げ出したくなるに違いない。…あの頃の理由とは、また別の理由になるけれど。
 しかし、そう考えてみると「願い」らしき「願い」は案外存在しないものだ。ちら、と周囲を見れば中学生らしく「成績が上がりますように」とか「彼女ができますように」とか、勉強か恋愛関係の願いが多いようだ。
 成樹としては勉強はこの際どうでも良いし、するとやっぱり恋愛、になるわけだが。
 ……何を願えば良いのだろう。
 柄にもなく真剣に悩もうとして、ふと気が付く。
(ポチは何を願うたんやろ?)
 それは好奇心というより、純粋な疑問だった。
 何しろ彼の頭の中はどう考えてもサッカーだらけだ。サッカーで埋め尽くされている、と言っても多分過言ではない。その彼にサッカー以外の事を願え、というのは結構難問なのかもしれなかった。
 無難な所でやはり勉強関係だろうか。何しろ、成樹も人のことは言えないが、昨日終わったばかりの期末試験も、かなりぎりぎり突破の雰囲気だ。
 そんなことを思いながらふと横を見ると、大地が短冊を書き上げ、竹に吊そうと目の前を通り過ぎた。
「何書いたん?」
 願い、という言葉に縁遠そうな大地がさして悩みもせずに短冊を完成させたことが不思議で問いかけると、無言で大地は自分の短冊を示した。
「『風祭の笑顔探求』…願いちゃうんやないか、これ?」
 どちらかというと目標のような気がする。しかし、大地自体は気にしていないらしい。
「希望の実現を願いと定義すると、これ以外思いつかん」
 きっぱりと言われると、さよか、と返事を返すしかない。まぁ、大地らしいと言えないこともないのかもしれない。
 そうして、どんどん部員達はそれぞれの願いを書き付け、竹に吊していく。人に見られることが前提になってしまうため、露骨に名指しはないが「両思いになれますように」などとあってなかなか微笑ましい。
 しかし、そんな風に人間ウォッチングに興じてばかりいるわけにもいかない。
 暫し悩んで、それから不意に思いついただけの言葉を書き付けた。それは自分でも少々格好つけすぎ、と言えるものだったが、それ以外思いつかなかったのだから仕方がない。
 そのまま、短冊を竹の可能な限り一番高い位置に吊した。理由は勿論、将やできればその他の人間に見られたくないからだ。もしこれを有希あたりに見られたら何を言われるかわかったものじゃない。…否、想像できるからこそ避けたい。
 それなら最初から書かなければ良いだけの話だが、それでも書いてしまうのは、多分将の影響なのだろう。何にでも一生懸命な彼は、チームワーク同様に「みんなで楽しく」という言葉に大変弱い。対して成樹はどちらかというと一人でも全然平気、というかうざいより大歓迎、なタイプなわけだが、どうにも将といると「今までの自分」を保ちきれなくなる。
 …それは、多分良いことなのだろう。自分に関しては実感がないが、将によってなんというか、人間性自体が丸くなった人間を多く知っているし、前向きになった人間が非常に多いのも事実だから。
「あれ、シゲさんもう終わったんですか?」
 思考に入り込んでいると、不意に将に声をかけられる。手元を見れば、しっかりと短冊を握っていた。
「何や。ようやく書き終わったんかいな」
「だって、何書いて良いのかわからなくなっちゃって…」
 神妙な面もちで言う彼が愛しくて、ついつい頬が緩んだが、将は馬鹿にされたと思ったらしい。やや顔を赤らめながらふてくされたように言う。
「…サッカー以外の願いなんて、悩むに決まってるじゃないですか」
「せやろなぁ。俺も悩んだわ」
 そんな彼を可愛いな、と思いつつ同意してみせると、本当ですか、と疑わしそうに聞いてきた。その素直な反応がますます愛しい。
「悩んだ悩んだ」
 繰り返して言うと、将はますます疑ったようだ。
「それで何て書いたんですか?」
「そんなん内緒に決まっとるやないか」
 怒るかと思ったが、その台詞を聞いてそれもそうですね、と将は相づちを打つ。基本的に願いなんて人に吹聴したいものではないのだから、当然と言えば当然だろう。当の将もそうだったらしく、ささやかな会話に終止符を打つといそいそと竹へと歩いて行った。
 将が何を願ったのか、正直なところやはり気になるが、自分も言わなかった以上、彼も教えてはくれないだろう。まぁ、どうしても気になるのなら短冊を一つ一つ見て行けば良いだけの話だ。他の人間ならともかく、将の筆跡を自分が間違えるとは思えない。もっとも、そこまですると、人によってはストーカー呼ばわりされるかも知れないが。実際問題、将以外の人間が何を書いたのかは気にならない。
 確かに、先ほど大地に短冊の内容を問うたが、例え無言であったとしても気にしないに違いない。その程度の事だ。それは短冊の内容でなくても同じ事。将に関することだから、どうしても気になる。
 どうやら自分は相当束縛欲があるらしい、と知って苦笑する。
 誰よりも、束縛を嫌っていたはずの自分が、束縛しようとしている。そんな、矛盾。
 もっとも、冷静に考えてみれば当然のことなのかもしれない。それくらい、自分は結局のところ彼に恋しているのだ。滑稽な程。
その点、おそら母は成樹にしみてみれば、尊敬に値するのかもしれない。決して、独占できないとわかりきっている男の子を産んだのだから。
 そんな事を考え、密かに苦笑する。そうして、母親を思い出すことで当たり前の事実を思い出した。
(明日、俺誕生日やんか)
 恐ろしいことにすっかり忘れていた。七夕の次の日、という比較的覚えやすい日程であるのにも関わらず、今の今まで、本当にしっかり、忘れていた。
 何しろ、成樹にとって誕生日は「特別なイベント」ではあまりないのだ。幼少の頃から母は忙しくて、だから誕生日だから云々、ということは何もなかった。
 今現在は和尚その他が祝ってはくれるが、それはケーキを食べる程度のものだ。それ以上でも以下でもない。
 なので、成樹の中では「誰かの誕生日」=「ケーキを食べる日」程度の認識しかない。大地ではないが、年を取る、ただそれだけのことにどれだけの意味があるのか理解できないのが正直な所だった。
 勿論、これが自分ではなく将の誕生日であれば話は別だ。彼の誕生日がくれば、つかの間の「同い年」になれるわけで、たったそれだけの事が妙に嬉しい。これもまた、矛盾しているが事実なのだった。
 ……が。
 残念ながら今年は将の誕生日を祝うことはできなかった。何しろ、成樹が将の誕生日を知った頃には彼の誕生日がとっくに過ぎていたのだ。
 もっとも、その当日を逆算してみると、自分と将は面識があったか、すら怪しい。ゴールデンウィーク直後の彼の誕生日は、つまり彼の転校直後でもあった。
 将が自分の誕生日を知っているとも思えないし、特別祝って欲しいとも思わない。「誕生日だから」将と一緒にいたいというより、「いつでも」将と一緒にいたいのが本音なので、別に誕生日にこだわる気にはなれないのだ。
 何もない誕生日よりも、将といる平日の方がよほど重要で大事だ。
 ―――そう、真剣に思うから。
 例えば、どんなに豪華で、高価なプレゼントを誰かからもらうよりも、たった一瞬の彼との会話の方が、よほど貴重だ。  
「…あんた、顔が溶けそうなくらいにやけてるわよ」
 突然、有希に声をかけられ、内心ぎょっとする。どうやら思考に入りすぎてしまったらしい。それでもどうにか平常を装って答えた。
「元からこの顔や」
「そうなの? それはまた間抜けな地顔ね」 
 おそらく、自分はよっぽど幸せそうに惚けていたのだろう。想像が出来るだけに恥ずかしい。
「どうせ、明日は自分の誕生日だ、とでも考えていたんでしょ?」
 ある意味図星だった。相変わらず聡い少女だ。そう思いつつ、当たり前に浮かんだ疑問を口にした。
「…なんで明日が俺の誕生日やゆうこと知っとんのや?」
「……あんた自分の人気舐めない方がいいわよ? あんた達の誕生日とかのデータはファンに流通していると見て間違いないんだから」
 サッカー部マネージャーであり、ついでに竜也とは部長同士で更にクラスメイトであるが故、竜也に関する質問をやたらと普段から受ける羽目になる有希としては、その事実を必要以上に噛みしめてしまうらしい。ひどく忌々しげに、溜め息混じりでそう言った。
「…さよか」
 そう言えば確かに女子数名に誕生日を聞かれた記憶がある。自分が将の誕生日を知ったのも、考えてみればその時ではなかっただろうか。
 確か、教室で話していたら、突然質問されたような気がする。勿論、将も自分も。誕生日やら身長やら(これは将に聞くのは少々酷ではなかろうか)、色々。
 あの時聞かれた個人情報が流れているのか。別にたいしたことを聞かれた記憶はないが、女の子の連帯感恐るべし。
「女の子に優しい割に案外鈍感だったのね。興味なかったからこそ優しかった、ってことかしら」
 かなり辛辣なことをさらり、と言ってのけるあたり、彼女の性格はかなりのものだとしみじみ思う。
「ええやろ、別に」
 彼女に対しては何を言っても勝てる気にはなれなくて、半ばげんなりとした気持ちでそう言うと、有希は首を傾げながら口を開く。
「風祭も趣味悪いわね」
「…ほっといてんか」
 彼女が自分たちの関係に付いて気が付いているだろうことは予測できたから驚く気にはなれない。その関係に嫌悪を示すわけでもないし、逆に異様な理解を示すわけでもないその対応は正直ありがたかった。
「勿論ほっておくわよ。人の恋路に邪魔する暇なんかないもの。ただ、あんたはあんまりにも幸せそうに惚けてるし、風祭は風祭であんな願い事書いてるから…」
「何や、見たんか?」
「偶然見えただけよ」
 故意に見たわけではないことを暗に言いながら肯定する。
「……」
 一瞬、将の願い事の内容を聞こうかと思ったが、有希の場合どう考えても答えてくれない気がする。しかし、実に気になる言い方をしてくれるものだ。一体どんな意味で「あんな願い事」なのか、気にならない方がおかしいと思う。もっとも、有希のことだからそれを計算して言っているのかもしれないが。  
「そんな顔しなくても、気になるなら本人に聞けば良いじゃない」
「それは出来へん相談や」
「相談なんかしてないわよ。ま、良いけどね」
 所詮他人事、と言わんばかりの彼女の態度は実にさっぱりとしている。
「でも、一つだけ忠告しておくけど」
 もったいぶるように、そこで一度区切って、それから耳元で囁くように言った。
「風祭に、願い事はもっと人の目を気にするように言っといた方が良いわよ? 私が見る分には良いけど、誰かさん達が見たら、あんた闇討ちされても文句言えないと思うから」
 ………。
(一体何書いたんや、ポチ?)
 しかし、彼女の発言から想像するに、自分にとっては歓迎的な願いを書いたらしい。ますます気にはなったが、まずはその事実を喜ぶべきかもしれなかった。
 彼の「サッカー以外の」関心の中に、確かに自分は含まれているのだと。
「……。ますます喜ばせただけみたいね」
 ばかばかしいことをした、と溜め息混じりに呟く。それとほぼ同時に、タイミング良くみゆきが有希を呼び、そのまま有希はみゆきの方へと移動して行った。
 することもなく、ちら、と視線を動かし将を探すと、彼は大地と話していた。更に視線を動かすと、大半の部員が短冊をつけ終わったらしい、いかにも「七夕」な竹が視界に入った。
 ―――幼い頃なら、自分は何を願っただろうか。
 そんな事を思ってみたが、思い出せるはずもない。
 第一、幼い頃から自分はどちらかというと現実主義だった。夢を素直に見ていることなど、できない日常だったから。
(七月七日、なぁ) 
 それは、遠い過去、ただの記号のような日付だった。けれど、今は違うのだ。七夕、というささやかな祭りの日。そんな風に認識できる事実こそ、幸福の証なのかもしれなかった。
 そう思い、口元に自然に笑みが浮かんだ。
 多分、自分は今、有希がみたら呆れるだろう程、幸福そうに微笑んでいるのだろう。その自覚はあるが、もはや無表情を作ることは不可能だった。
 神様なんて、信じてはいなかった。
 だから、願うこともなかったけれど。 
 奇跡のような瞬間をくれた、名前も知らない神様に、今は素直に感謝しよう、と思える。 

 「運命」なんて信じていなかったけれど、彼に出逢えた、という事実は本物なのだから。

                    □■□

 なんだかんだでだらだらと過ごし、結局解散したのは夜の七時を回った時間だった。夏だから日が暮れるのは遅かったが、さすがにこの時間帯になれば立派な夜になっている。
 当然のように同じ方向のメンバーで帰り道を歩いていると、こそ、と小声で将が話しかけてきた。
「シゲさん、今日家寄ってくれませんか?」
「勿論ええよ?」
「良かった」
 そんな会話も、最近では割と日常茶飯事だ。家へ行って何をするのか、と言えば、それはテスト前なら嫌々ながら勉強だったりするし、ビデオ鑑賞会だったり、ただの雑談だけをして帰るときもある。それらは理屈なく楽しかったし、その合間にキスをするチャンスも多々あるわけで、断る理由などあるはずもなかった。つきあっている相手に、下心がない男なんて存在しないのだ。…多分。
「それにしても、天の川ってどれなんでしょうね?」
 言いながら将が空を仰いだ。しかし、東京の夏の空では星々が輝く夜が演出されるはずもなく、肉眼で確認できる星などいくつもなかった。
「まぁ、どれやとしても今日はこないにええ天気やから、織り姫と彦星も、ラブラブデートにいそしんどる頃やろ」
「そうですね」
 成樹の台詞にくすくすと笑い、将が同意する。
「でもさー、嫌だよなー、恋人と年に一度しか会えないなんてさ」
 案外ロマンチストなのか、真面目な顔をして高井が言う。「確かにそうだね」
 それに対しても、ご丁寧に将は同意を示した。まぁ、確かに自分も年に一度しか将に会えないとなったら、大騒ぎするに違いない。
「でも何で笹に願い事吊すんだろうな?」
「自分の恋愛の責任すら持てない人間が、他人の願い事を叶えるとは思えんしな。神話だから当然だが現実味の欠ける話だ」
「…不破君、それちょっと趣旨がずれてるよ…」
 そのまま、七夕から話はどんどんずれていく。自分も適当に相づちとつっこみをして、そのまま暫しくだらない話題で盛り上がった。そうしているうちに分かれ道に辿り着き、また明日、とお決まりの台詞のやりとりの後、皆と別れた。
「楽しかったですね」
 その主語はサッカーなのか今の話題なのか、ささやかな七夕祭りなのか暫し迷ったが、とりあえず頷いた。実際、どれが該当したとしても楽しかった、と言って問題は特にないだろう。今の自分は「将がいれば」大抵の事は楽しいのだ。まったくもって我ながら単純だとは思うが事実なのだから仕方がない。
「七夕なんて、小学校の頃思い出して懐かしくなりました。良いですよね、みんなであんな風にするのって。来年もやるのかなぁ」
「そら思い出せばやるんとちゃうか?」
 誰が、とは勿論言わない。しかし、もしやる場合、やっぱり自分や将がまた竹を運ぶのだろうか。そう思うと、あまり嬉しくないのだが。
「じゃぁ、きっとやりますよ。ぼくが忘れないから」
(そないに七夕ごっこ気に入ったんか? めずらしいやっちゃなぁ)
 例えばそれがクリスマスなら意外でもないのだが、ずいぶんと地味な祭りを気に入ったものだ。少なくとも成樹はそんなに七夕が好きな人間、というものに出会ったことがない。
 よほど自分は不思議そうな顔をしていたのだろう。将は赤い顔をしながらだって、と言った。
「…だって、七夕ってシゲさんのバースデーイブじゃないですか。忘れるはずがないです」
「……」
 この場合、どんな反応をすれば良いのだろう。何か言うべきなのだが、言葉が出てこない。嬉しいのは間違いないが、これを人は胸がいっぱい、と言うのかも知れない。  けれど、素直に喜ぶには成樹は少々ひねくれた性格をしていた。
「バースデーイブっちゅう単語はないんとちゃうか?」
 勿論、意味は分かる。クリスマスイブがクリスマス前夜であるから、バースデーイブは誕生日前夜、という意味なのだろう。
「良いんです。七夕も好きだけど、シゲさんの誕生日の前日、って事の方がどうしても頭の中で先行しちゃうし」
 その台詞を聞いて降参しない方がどうかしている、と成樹は思う。
 その場で何も考えず、ついつい彼を感情のまま抱きしめてしまった。
「ちょ、し、シゲさんっ、ここ、外っ…」
 ひどくあわてた様子で将が言ったが、聞こえないフリをする。
「暑うですまんけど、ちょっとの間我慢したってや」
 そうして、そう言うと少しばかりもがいていた彼がおとなしく腕の中で収まった。それで調子にのって、ぎゅう、と更にきつく抱きしめる。
 ついさっきまで、こんな状況を胸がいっぱい、と言うのかと思ったけれど。
 ―――この気持ちを、胸がいっぱい、なんて言葉で表しきることなんて、とてもできない。全然、たりない。
 将が、自分の誕生日を覚えていた、その事実も、「七月七日」を、「七夕」ではなく「成樹の誕生日前日」、と思ってくれることも。
 たったそれだけのこと、と自分でも思うけれど、それだけの事実と思っても、どうしようもなく歓喜してしまうのだ。その感情を自分ではどうにもできない。
(知らんかったわ)
 そう、知らなかった。こんなにも、人に誕生日を覚えていてもらえることが嬉しい、なんて。勿論、それは覚えていてくれる人が将だからこそ、ではあるけれど。
「良ぉ、覚えとったなぁ。明日が俺の誕生日やなんて」
「忘れるはず、ないじゃないですか。シゲさんの誕生日なんですよ?」
「…さよか」
 自分が彼の誕生日を知った時、彼も自分の誕生日を知り、覚えていてくれたのだろう。自分にとっても、たいした意味のない日だったのに、それを彼は特別な日であるかのように言う。
 ―――彼は知らないだろう。
 彼が覚えていてくれた、それだけの事実故に、成樹にとって自分の誕生日は初めて意味を持った、なんて。
「…あの、シゲさん…、そろそろ苦しいんですけど」
 おそるおそる苦情を言われ、あわてて彼を解放した。
 見ると、彼の顔は真っ赤になっている。それは、多分息苦しさ意外の意味も多聞にあるのだろう。
 けれど、おそらく自分の顔も赤いはずだ。ひどく照れくさくて、そして幸福な気持ちのまま、再び歩き出した。
「なぁ」
 そうして、幸福ついでに少しだけ厚かましくなってみる。「はい?」
「願い事、何書いたん?」
 答えてもらえないかと思ったが、彼はあっさりと答えた。「明日、晴れますように、って」
「…は?」
 明日晴れますように。
 願い事と言えば願い事だが、どうして願うのかがよく分からない。しかも、有希に「人の目を気にしろ」とまで言われる願い事とはとても思えなかった。
「遠足とか、試合とか。…特別な日って、晴れて欲しいじゃないですか。だから」
 理由を聞いたら笑うしかない。成る程、と思う。とても彼らしい気がする。有希の言う『連中』も自分の誕生日を知っている可能性はそれなりにあるわけで、確かにそれは妬まれるかもしれない。自分の誕生日を、特別な日だと、彼が認識してくれたのだから。
「どうせなら、明日ずっと一緒におりたいとか、願うてくれたらええのに」
 笑いながら言うと、彼はますます顔を赤くした。
「それは、考えたんですけど。…ちょっと、贅沢すぎるかな、と思って」
 贅沢なはずがない。贅沢なのは成樹の方だ。将にそんな風に思ってもらえたのなら。
 けれど、将に言わせるとそうはならないらしい。明日はおそらく和尚達に祝われるだろうから、せめて今日誘ったのだ、とひどく言いにくそうに告げた。
(なんや、もしかして)
 もしかして、自分は自分の予想の五万倍くらい将に好かれていたのではなかろうか。舞い上がる以外にどうすれば良いのか検討もつかない。
「あ、でも。…誕生日プレゼントとか、なにあげたら良いのかわからなくて。買ってないんですけど。何が欲しいですか?」
 明日買って渡しに行きます、と続けて言われ、横に首をふった。
「いらへんんよ」
 だって、もう十分にもらった、と思う。本当にもったいないくらい、たくさん。
「でも」
 けれど、将は納得いかないらしい。それで、更に調子にのってみる。
「せやったら、今日泊めてくれへん?」
「…? 良いですけど、何でですか?」
「朝一番におめでとう、て言うてもらいたいんや」
 我ながら恥ずかしい台詞だ、と自覚しながら言うと、将はひどくまぶしい笑顔で頷いた。
「はいっ! …でも、そんなことだけで良いんですか?」
「…それが、今一番欲しいて思うたんや」
 特別でない日が、特別に変わった。まるで誕生日と言うより、記念日だ。彼によって。彼がいたから。
 だからこそ、―――誰よりも好きで大切な人に、言ってもらいたい、と思う。   
「わかりました」
 まだどこか、納得しきれない表情のまま、けれど彼は重ねて頷いた。ひどく神妙に。それから、ふと思い出したように尋ねる。
「ところで、シゲさん」
「何や?」
「シゲさんは何をお願いしたんですか?」
 答えかけて、けれどやめた。
「内緒やて言うたやろ」
「でもぼくは教えたのにズルいです」
 正論だったが、けれどやっぱり答えられない。
「…願い事は内緒やけど、でもな」
「でも?」
 ちょっと思わせぶりに間を置いて、言った。
「ポチに真剣に惚れ込んどるんは、確かやな」
「〜っ、…」
 聞いた瞬間、将はこれ以上ないくらい真っ赤になる。
 ひどく素直で、想像通りで、たまらなく愛しい反応だった。
「っ、願い事とは関係ないじゃないですかっ」
「…関係はあるんやけどな」
「え?」
 そっと小声で呟き、聞き取れないらしい将が問い返したが、やはり聞こえないフリをして、空を見上げた。
「明日は晴れるやろ。絶対や」
「ぼくの願いの話じゃなくて、シゲさんの願いの話なんですけど…、まぁ良いです。あと。…えっと。…ぼくも、真剣に、シゲさんのこと好きですよ?」
 本人の自覚のないまま、更に成樹を骨抜きにするようなことを言う将に、こらえ切れなくて公道だと言うのにキスをする。…本当に、一瞬だけのささやかなものだけれど、終わったあとはお互い妙に恥ずかしくて顔を見られないまま、急ぎ足で歩いた。
 ―――明日は、きっと晴れるだろう。
 そう、繰り返し思う。将の願い通り、明日は晴れるはず。そうして、自分の願いを思い出し、苦笑した。
 
 成樹の短冊には、こう記してある。

 ―――『彼の願いが叶いますように』、と。 

                                    おしまい。


大阪弁協力(いつもありがとうございます):M様。