SCHLUESSEL


 
「……っ」
 やがて、しばらく荒くなった息を整えることだけに専念していたエドワードが、不意にベッドから起きあがろうとしていることに気がついた。
 だが、身体の奥が痛んだのだろう。息を飲む気配が伝わってくる。
「もう少し、休んだ方が良い」
 言っても無駄だと知りながら、そう言葉を紡ぐ。行為が終わった後、いつでも彼はすぐにその場から去ろうとする。
 この場は仮眠室だから確かに長居には向かないが、例え場所がホテルであれ、ロイの自宅であれ、それは同じ事だった。泊まっていったことなど、最初の一晩だけだ。
 それも、彼としては帰りたかったがどうしても立ち上がれなかったから、というのが理由だったから、エドワードとしては非常に不本意だったらしい。教訓にしたのか、それ以降は加減しろ、とうるさく言うようになった。旅をするのに不都合なのは確かだろうから、彼にしてみれば当然の主張だろう。
 だが、今日は彼の方が加減を望まなかった。それ故に、立ち上がることに苦戦しているのが現状、というわけだ。
「冗談。こんなとこ、いつ誰が来てもおかしくないのに、ゆっくり休んでなんかいられるかっての」
 言いながら、彼は今度こそ立ち上がる。
 けれどやはり辛いのだろう。動きが鈍い。それでもふらふらと歩き出した。どうやらシャワールームへと向かう気らしい。
「余程のことがない限り、誰も来ないとは思うがね」
 まだ通常、仮眠をとるにしては早すぎる時間帯だ。ただし、こんな行為をするのにも早すぎるかも知れない。
 ともかく、適当な理由を作ってこの時間に自分は仮眠室を利用しているわけだが、通常ならまず使用しないだろう。彼がそこまで急ぐ必要はないはずだ。
「その余程のこと、がもしもあったらどうすんだよ。テロリストが今騒いだら、ここに誰かが知らせに来るんじゃねーのか?」
「反論の余地のない台詞だな」
 今すぐにテロリストが事件を起こせば、確かに自分の部下の誰かがこの場所へとやってくる可能性は非常に高い。ロイはそれでも特に問題を感じないが、エドワードにしてみれば絶対に避けたい事態だろうことは容易に想像できる。自分の部下ならば、例え自分たちの関係を知ったところでやっぱり、と思う程度の人間が大半だろうが、それは彼にとって救いにはあまりならないに違いない。
「ホント、あんたって仕事しねぇのな」
「君がいないときはしているよ」
 正しくはしているときもある、という程度だが、そこまで言う必要もないだろう。もっとも、とても信じられないのかエドワードは疑わしそうに自分を見る。
「それより、君たちはいつまで滞在の予定なのかな」
「明日の朝には出発する」
 いつもながら、随分とあわただしいことだ。思わず肩を竦めた。
「では、次はいつ頃こちらには来る予定かね?」
「わかるわけねーだろ、そんなの」
 素っ気ない返事に、だろうな、と思う。いつも彼は気まぐれにやってくる。たまに電話はくるが、これも特に決まった周期があるわけでもない。本当に最低限、としか言いようがなかった。痺れを切らして適当に用事を作り、自分の方から彼にこちらに来るように、と呼びつけたことも何度かある。
 先ほどはあれほど自分を呼び、求めてくれたというのに、本当につれないことだ。
「ここは仮眠室だから仕方ないとは思うが、次回は私の傍らで眠って欲しいと思うんだがね」
 彼の背中に向かってしみじみと言うと、エドワードは振り返り、心底不思議そうな表情を浮かべた。
「なんでだよ?」
 その言葉はどう見ても本気の発言だった。彼には本気でわからないらしい。
「普通、そういうものだろう。君は行為が終わったらすぐさま帰ってしまうが、味気ないとは思わないのかな」
 たまにしか会えないのだから、せめて久々に会えた夜は数時間一緒に過ごすのは当然だろう。
 世間一般を力強く言うほどロイも一般的な恋人同士像を知るわけではないが、エドワードのように行為後はすぐに帰ろうとする、という話は聞いたことがない。
 少なくとも、今まで自分が関係を持ってきた女たちはその後も一緒にいることを望む女ばかりだった。まさか、彼女たちが例外だった、ということもないだろう。
「思うわけねーじゃん。やるために会ってんだから、終わったら帰るのは当然だし理にかなってるだろ」
「……別に、その行為だけが目的ではないんだがね」
「けど、やるのが一番の目的だろ?」
 あっけらかんと言葉を返され、返答に困った。確かにそれも間違いではない。間違いではないが、根本的なところが間違っている。
「一緒に朝まですごすのは、将来の結婚相手にすればいいだけの話だろ。あんたと結婚したいって人は多いみてぇだしさ」
 その言葉に思わず息を飲んだ。彼は実にあっさりとその言葉を告げたが、その意味を本当に理解しているのだろうか。
「……私が今現在交際してるのは、君だけなんだが」
 言葉を探し、とりあえず現状を告げた。エドワードはその言葉が意外だったのか、少しだけ目を見張る。
「へぇ、そうなのか。珍しいこともあるもんだな」
 その台詞で、確かに分かったことがある。明らかにエドワードは自分という人間を誤解しているのだ。間違いない。
 どうやら彼はロイがいつも複数人数と関係を持っている、と思っていたらしい。そして、エドワードはその一人でしかない、と。そう思っていたのだろう。
「けど、そのうちあんたも誰かと結婚するだろ。軍のお偉いさんの娘か、金持ちの娘か、その辺はオレには想像つかねぇけど」
 いかにも当然、と言わんばかりの口調。少なくとも、エドワードはそれが当然だ、と思い込んでいる。ロイがいずれ誰かと結婚する日が来るのだ、と信じていると言っても良い。
 それもおそらく、エドワードはロイは政略結婚をする、と思っているのだろう。恋愛結婚をすると思っているのなら、例えるにしても気だてが良いとか美人だとか、女性本人に対しての特徴を言うのが普通だ。それなのに、彼は本人ではなく、その家柄を口にした。
 そして無論、その結婚相手、の範疇にエドワード自身は絶対に含まれていない。アメストリスでは同性間の結婚、という概念などないからこれは当然の話ではある。
 だが、その上で結婚と告げていること言うことは、それはつまり彼は自分が発する愛の囁きなど、少しも信じてくれていなかった、という事実を示している。
 それも、今まで何度も何度も、かなり真剣に、本気でロイはエドワードに対して愛を告げてきたというのにも関わらず、だ。
「鋼の。君は少し、私を誤解している」
「何がだよ。ちゃんとわかってるぜ、オレ。あんたが女ったらしで、女好きで、浮き名もそれなりに流してるって。別にそれを邪魔する気も口出しするつもりもねぇし」
 確かに、彼の言うとおり自分は女が好きだ。それは否定しようがない。男という性別を持って生まれた以上、ある程度は当然のことだ。本能なのだから。
 だが、それでも。今現在、この瞬間に自分が恋しているのは女ではなく、目の前の少年だ。
 それなのに、当の本人はその事実を信じてくれていない。
 きっとエドワードは今の自分たちの関係を、ロイの気まぐれだとか、遊びだとか、とにかく本気ではない、と定義しているのだろう。だからいつかロイは結婚するに違いない、などと言い出している。
 目眩がした。こんな事態を想定したことなどなかった。彼は確かにいつもつれない態度ではあるが、まさか本気で告げた言葉を、彼が欠片も信じていない、等という事態を誰が想定するだろうか。
「少なくとも今現在、結婚の意思はないんだが」
 未来は確かに、断言するのは少しばかり難しい。だが、その意思はとりあえず今現在なかった。だが、エドワードはそれがどうした、とでも言いたげに肩を竦める。
「今はしなくても、そのうち結婚すんだろ。そのうち子どもとかも作るんだろうし。その時はいくら女好きでも浮気とかしないで、良い父親になってやれよな」
「……君は。それで、良いのかね?」
「良いも悪いも、それはオレが決めることじゃねーっての。あ、言っとくけど、オレ絶対浮気相手にはなんねぇから」
 きっぱりと言われ、二の句が継げない。まさか、ここまで自分という人間を信じてもらっていないとは思わなかった。
 はぁ、と深くため息をつく。ひどく疲れを感じた。やるせないにも程がある。
「私は確かに女性を愛しいとは思うが、恋したのは君だけだ。政略結婚も考えてはいないよ」
 少なくとも、今の自分に政略結婚をする意志など少しもない。それは確かに、野望への近道になるのだろうが、彼に恋した瞬間にその選択肢は消滅した。
 確かに女は好きだ。それは事実だ。だが、恋をしたのは彼にだけだ。他の誰も、こんなにも欲しい、と思ったことはなかったし愛しいと思ったこともなかった。
「別にオレにそんな嘘言う必要ねぇっての。別にあんたが結婚しても裏切られたとか言う気、ないしさ」
「いや、だからそうではなく」
 駄目だ。彼は最初から自分が本気、という思考が全くない。
 どう言えば。何をすれば、彼は信じてくれるのだろう。
 自分は彼だけに恋しているのだ、という、ただそれだけの単純な事実を。
 言葉を探していると、不意にノックの音が響いた。
「大佐」
 聞こえてきたのはリザの声だ。まだ休憩時間は終わっていないはずで、それなのに彼女が来た、ということは何らかの異常が発生したらしい。
 鍵をかけておいたし、彼女が入室してくる心配はない。だが、エドワードは身を完全に固くして俯いている。
「何があった?」
「良いお知らせと、悪いお知らせがあります」
 自分の問いに、どこまでも冷静に副官はドア越しで答えた。
「……良い知らせだけを聞きたいところだな」
 思わず本音を漏らす。無論、そうもいかないだろう。
「では良い方のお知らせを先に申し上げます。テロリストの主犯格をつい先ほど捕獲したとの連絡がハボック少尉より入りました」
「なるほど、それは随分と良い知らせだな。それで?」
 悪い方の知らせは何なのかと先を促す。できれば、大量に死者を出した、などという報告はご免被りたい。
「件のテロリストが仕掛けた爆弾で線路が爆破されました。明日中の復旧は難しいのではないかとの見解です」
 げ、と横で小さくエドワードが呟いたのが聞こえる。明日の朝出発する、と言っていたから、当然列車に乗るつもりだったのだろう。
「死者は」
「列車が通る時間ではありませんでしたから、死者・怪我人はおりません」
「それは不幸中の幸いだな」
 随分と人情派のテロリストだったらしい。暴力ではなく、思考に酔うタイプの人間が主犯だったのだろう。
「分かった。すぐに行く。皆を集めておいてくれ」
 言うと、リザは快活な了承の返事を残し、去っていった。彼女は有能だから、すぐに動ける自分の部下達は顔をそろえるだろう。主犯が捕まった、というのなら雑魚共をこれから検挙しなければならない。自分がいなければ何もできない部下など一人もいないが、事は早く済ませた方が良いに決まっている。
「……んじゃ、仕事がんばれよ大佐。オレはホテルに戻るから」
「待ちなさい、鋼の」
 再びシャワールームへと歩き出そうとする彼を呼び止め、自分の軍服へと手を伸ばした。ポケットを探り、鍵を取り出す。
「私の家の鍵だ。中で待っていなさい」
「は?」
 ぽかんとしてエドワードは自分を見つめた。大きな琥珀の瞳が自分を映している。その様子はいかにも子供じみていた。先ほどの艶は綺麗に消え失せている。そんな彼に、無理矢理鍵を握らせると、急いで軍服に袖を通しながら言葉を紡いだ。
「どうせ列車は走らない。それならホテルにいても私の家にいても同じ事だろう」
 もしもエドワードをホテルに帰したら、彼は列車に乗れないにしてもそのまま自分の前から当分姿を消す可能性が高い。それは避けたかった。
「だからって、なんであんたの家にオレが行かなきゃならねーんだよ」
 エドワードにしてみればもっともな主張だったが、一言で黙らせた。
「命令だ」
「横暴軍人!」
 エドワードが怒鳴る。だが、それがどうした、としか思わない。自分の言葉を少しも信じない彼も十分横暴だ。
「何とでも言いたまえ。場所は覚えているだろう。適当に、風呂でもベッドでも本棚でも好きに使うと良い。君の弟には私から連絡しておこう」
 言いながら身なりを整える。できればシャワーを自分も浴びたがったが、そうもいかない。こうなれば、さっさと仕事を終わらせて家へと戻るのが一番だ。面倒ではあるが、書類を相手にするよりはずっと良いし、さすがにそこまで無責任にもなれない。
「ちょっ……、待てよ!」
「待てない。君も聞いただろう。私はこれから仕事だ。君に手伝ってもらおうにも、あまり動き回れないだろう」
 ちら、と彼の腰へと視線を移す。いつもなら元気に飛び回るが、さすがに今の彼には無理だろう。
「あんたのせいだろっ」
「今日に限っては、君が望んだことだ」
 言い捨てて鍵を解いて扉を開く。ぎぃ、と重い音がした。
「分かったね、命令だ。私の家にいなさい」
 振り返らずにもう一度言った。彼の返事はない。期待もしていなかった。
 命令、と言えば彼は頷くしかない。それが自分たちの関係だった。
 エドワードに恋しているといっても、最後は権力に物を言わせる自分は最低な人間だろう。その自覚はある。逆に言えば、それだけ余裕のない恋だった。
 多分、とロイは思う。これは最初で、そして最後の恋だ。こんな恋をきっと自分は彼にしかしない。できない。こんなにもなりふりを構わない、そんな恋は。 
(滑稽だな)
 そんな恋をする自分を自嘲するしかない。だが、今は恋だけに溺れているわけにはいかなかった。仕事へと思考を切り替え、軍靴をかつかつと鳴らしながら歩を進める。
 とにかく今は仕事だ。少しばかり苛ついているから、テロリスト達には多少悲惨な夜になるかも知れない。
(運が悪かったと諦めてもらおうか)
 これから会うだろう不幸なテロリスト達を思って微笑を浮かべる。そうして長い夜にならないことを、自分のために信じもしない神に祈った。