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気がつけば、心を奪われていた。
そんな恋が本当に存在するのだと、そう知ったのはつい最近のことだ。三十年近くも生きてきて、初めて知った。
「随分、今日は騒がしいんだな」
その相手である子どもは、些か困惑した様子でそう言葉を切り出した。
肩よりも長い金色の髪は編まれ、やはり金色をした瞳は大きく、ややつり上がっている。賢そう、と見るか生意気そう、と見るかは判断側の嗜好によるかも知れない。
年齢よりは幼く見える身体つき。小さい、と評すると彼は怒るが、そう形容するのが一般的だろう。大抵の人間は彼を年齢通りとは判断しない。
服装は、と言えば見慣れた赤いコートに黒の上下。変わり映えのない、相変わらずといって良い恰好だ。けれど、ロイにしてみれば彼に会うのは二ヶ月ぶりだから、ほんの少しだけ大人びたようにも見える。多少は身長も伸びたかも知れない。彼の年齢を思えば、それらは当然のことだった。
彼の名をエドワードという。名前は凡庸だが、非凡な才能に恵まれている。今現在、最年少の国家錬金術師。そしておそらくその記録は当分破れないだろう。銘は鋼。その為、ロイは彼を大抵は名前ではなく『鋼の』と呼ぶ。その呼び名に彼は不満などはないらしい。
尚、華々しい経歴と栄誉を誇っているが、彼が抱えているのは栄光だけではない。最年少で国家錬金術師となったのも、彼が抱える闇の存在があるからこそだ。そしてロイは、そんな彼の抱える闇の正体を知っている数少ない人間だった。――だからこそ、彼は彼の後見人である自分の元へと赴く。彼を国家錬金術師に推挙したのはロイなのだから、それは当然の流れだった。
「いつも以上に、昨日今日とテロリスト達が元気でね」
彼の問いに、大仰に肩を竦めて告げる。予想していた答えだったのだろう。特に彼の表情は変わらなかった。その代わり、ちら、とロイの机上に存在している書類へと視線を送る。
「テロリストが元気だと、あんたの書類も増えるわけ?」
「上層部からの文句と嫌味が書かれた紙片の束を書類と呼ぶのなら、答えはイエスだな」
自分も机上に視線を送りながらそう答えた。通常業務だけでも多い書類は今現在、更に嵩を増していた。これでは、自分でなくとも嫌になるだろう。
「そっか。んじゃ、今は相当忙しいんだな。分かった」
その表情からは落胆が読み取れた。いつもなら、にやにやと実に嬉しそうに笑って『そりゃご苦労さん』だとか、『せいぜいがんばれよ』と同情や激励の形を借りた嫌味を言う少年らしくない反応に内心首を傾げる。彼を見つめたが、その様子に演技は見られない。
「……何か、頼み事でも?」
彼が自分に会いに来るときは、大抵何らかの目的が存在する。それは例えば自分のサインを求めていたり、入手困難な書籍の捜索依頼であったり、または自分が求めた書類を彼が提出する為であったり、とにかく用件があるからこそ、彼はこの場所へとやってくる。
現在は特に自分へ渡す書類などはないはずだから、何らかの依頼ごとだろう。それも、ロイが多忙では難しいと思われるような。
「頼み、っていうか。……あんたが暇なら、今日の夜はあんたの家に押しかけようって思ってたからさ」
その言葉に、思わず目を見開いて彼を見つめた。
「それは随分、珍しい申し出だな」
夜、と彼は言った。それは間違いない。決して聞き間違いではない。だとするなら、意味するのは一つだけだ。
彼から自分と夜を共に過ごしたい、等と言うのは初めてのことだ。今まではロイが彼を誘うのが常だった。そうして彼が頷けば――――ただし、快く、という単語が付随することはなかったが――――自分の屋敷やホテルで身体を重ねた。それなのに、本当に随分珍しいこともあるものだと思う。
「仕方ねぇだろ」
唇を尖らせ、どこか自棄気味に彼は言った。
その表情は実に幼い。まだ彼が子どもだ、と思い知るには十分だろう。ただし、自分はそんな子どもに手を出した事実を後悔するほど善人ではなかったが。
「身体が疼くか?」
からかい半分に尋ねると、彼は俯き、やがて小さく頷いた。表情は見えないが耳元が赤く染まっているのが見える。彼らしくない、あまりにも素直な仕草に思わず笑みが浮かんだ。
「なるほど。それは実に喜ばしいことだな」
「全然、嬉しくねぇ……っ」
彼はぶんぶんと真っ赤な顔を横に振った。いかにも不本意らしい表情を浮かべている。相変わらず、素直な反応だった。
色々な女と夜を重ねたが、純情な素振りを見せたところで演技ならば見破る自信がある。彼は間違いなく、自分以外の人間と身体を重ねたことなどないはずだ。明らかに何も知らない身体をしていた。
そんな彼が、渋々ながらも自分を欲している。その状況を、どうして喜ばずにいられるだろうか。それも、普段は悪態をつくばかりの、そんな相手なら尚更だ。
生意気で、幼く、そして素直。どこまでも、彼は子どもだと思うのに、自分の心は完全にエドワードに奪われた。不様なほど、完璧に。理由などどうでもいい。存在するのは、結果だけだ。
「では、時間を作ろう」
仮眠の時間を削ればそれで済む話だ。昨日は最低限の睡眠をとっているし、特に問題はない。
「別に無理しなくて良いって。大人しく仕事しろっての」
「そうはいかない。君から誘ってくれるなんてそうはあることじゃないしな」
口元を緩めたまま、そう告げるとエドワードは軽くため息をついた。
「……この不真面目軍人」
「仕事の合間に大事な恋人とのささやかな逢瀬を楽しみたいだけだよ」
「相変わらず、そーいう鳥肌が立つようなことを平気で言うんだな、あんたは。その言葉に騙されて泣いた女の人って絶対多いんだろうな」
ひどい言われようだが、笑顔で流した。確かに、エドワードにしてみれば鳥肌が立つ台詞なのかも知れないが、ロイとしてみれば本気でそう思っていることを口にしただけだ。
かつては、彼の言うとおり多少は女性に似たような言葉を紡いでいた時期もあった。それは恋を知らなかった頃の話だ。だが、エドワードの予想とは違い、女たちはロイの言葉に騙されて泣いたりはしなかった。喜んで騙されたり、女も同じように笑顔で嘘をついた。自分が本気ではない以上、相手も本気であっては困る。それは恋愛と言うより、一種のゲームでしかなかった。暇つぶしのゲームでしか。
そんな風に思っていた自分が恋をするのだから、世の中とは不可思議なものだ。
人間が溢れたこの世界で、自分はこの子どもだけに恋をしている。
「今日の夜は何時なら君は空いてるのかね?」
その問いに、エドワードは一瞬だけ言葉を詰まらせる。正直に答えるべきか否かを悩んだらしい。
「何時でも、平気だけど。……けど、ホントに良いからさ。今日は真面目に仕事しとけって」
結局、正直な答えを返したが、付け加えた言葉から察するに、彼はロイの性格を理解しきってはいないのだろう。今日の夜、彼と数時間を過ごすことはすでに自分の中で決定事項だ。彼がどんなに遠慮しようが、嫌がろうが、予定を変更するつもりはなかった。……無論、無粋な犯罪者が邪魔をすれば時間をスライドさせる必要は出てくるだろうが。
「では、九時頃が良いかな。遅い夕食だと言えば、君も部屋を出て行きやすいだろう」
何しろ、彼の弟であるアルフォンスは相当勘が良さそうだ。もしかしたらすでに自分たちのことを察しているのかも知れないが、少なくともエドワードは隠したがっている。それは多分、当たり前の事なのだろう。
なにしろアルフォンスには身体がない。その原因を作ったのはエドワードで、――――ただし、彼一人の責任ではないが、彼は頑なにそう思っている――――弟に対して彼はひどく罪悪感を持っている。飲食は一切必要としない、恋も今のままでは難しい弟。引け目を感じて当然だった。まして、自分たちは同性同士だ。隠したいと彼でなくとも思うだろう。
尚、そのアルフォンスは、と言えば、現在はリザの手伝いをしているらしい。昼間にエドワードに会うと、大抵その傍らにはアルフォンスがいるのに随分と珍しい事態だった。無論、だからこそ今こんな会話が交わせるわけだが。
「九時に仮眠室だ。来てくれるね?」
囁くと、彼は眉根を寄せていたが、やがて小さく頷いた。彼の中でいくつかの葛藤が生まれたが、とりあえずはロイの望みを叶えてくれる気になったようだ。
「楽しみに待っているよ」
本当に楽しみだった。彼と最後に会えたのはもう二月も前になる。頻繁に会えないことは前もって承知していたし、我が儘を言うような年齢ではないが、その時間を短いと思うほど老成してもいなかった。
「大佐の言葉って、すげぇ信用できねぇ」
「ひどいな。本当に楽しみだと思っているのに」
笑みを浮かべたまま告げ、彼の頬に軽くキスをした。本当は唇にしたいところだが、それでは収まりがつかなくなりそうだ。さすがにそれはまずいだろう。
「こんなにも私が誠意を込めて愛を囁くのは君に対してだけだよ」
「それ、絶対嘘じゃねぇか」
決めつけられ、苦笑する。正真正銘事実だと言うのに、実につれない。
「一体何人に言ったんだよ、その台詞」
「君にだけだ」
信じてもらえないだろうな、と思いながらも真摯に告げる。だが、やはり予想通りどうだか、と彼は肩を竦めた。
「あれだけ必死に口説いて信じてもらえないとは、実に哀しいことだな」
最初は食事や茶に誘った。彼が自分の元へと赴く度に、必ず。彼は大抵断ったが、やがてごくたまに頷いてくれるようになった。……その頃は別に彼に恋をした、という実感はなかったように記憶している。からかい半分の気持ちもあったし、なかなか頷かない彼を頷かせたい、と意味もなく躍起になっていただけだった。
あまりにもしつこく誘った結果、彼はやがて辟易とした表情で食事をしよう、という誘いに頷いた。一度応じればロイの気が済むかも知れない、とでも思ったのだろう。
そうして食事をして。それはやがて、ゆっくりとだが回数を増やしていった。そうして。
――――気がつけば、彼との会話をひどく心待ちにしている自分を発見した。
それがつまり、記念すべき恋の自覚だった、というわけだ。
自覚してしまえば、行動など決まっている。とにかくひたすらにエドワードを口説いて口説いて口説いた。決死だとか必死だとかいう言葉は、きっとああいう時に使用するのだろう。エドワードは大層呆れていた。からかうなと怒りもした。それでも結局、彼は最後には自分と夜を共にした。
昼間は生意気な事ばかり言うその口が、やるせない吐息を漏らし、切羽詰まった様子で自分を呼ぶ。怯えて震える手。身体。そんな彼を無我夢中で貪り、手に入れた。途中で嫌だとか、もうやめよう、等とも言われたが全て無視した。そんなことができるなら、最初から彼に恋などしない。 自制ができない。これは、そんな恋だとその頃にはもう察していた。そして今も、彼に溺れ続けている。
「日頃の行いが悪いからだろ。自業自得だ」
あっさりと言葉を返し、彼はそのまま執務室を出て行った。
自業自得といわれれば、確かに心当たりがまったくないわけでもない。恋をしたのは彼にだけだが、偽りでも愛を囁いた相手はそれなりにいる。それは隠す気もないし、隠したところですぐにばれるだろう。浮き名をいくつか流し、そのことをエドワードも噂で聞いている以上、否定するだけ無駄だ。
「本当に、君に対しては本気なんだがね」
彼が去り、一人だけになった部屋で小さく呟く。だが、それはあまりにも無意味な独り言に過ぎない。
ちら、と彼の出て行った扉を見たが、やがて視線を書類に戻した。彼は指定した時間にやって来るだろう。基本的に彼は約束を破らない。どんなに憎まれ口を叩いたとしても、それは変わらない。だとすれば、間違いなく彼は夜、自分の元へとやって来る。
そして自分に抱かれるだろう。
初めて彼を抱いた夜も、今夜も。
結局はエドワード自身の選択だ。彼は確かに、自分にそれなりの情を抱いている。そうでなければさすがに彼の性格では頷くはずがない。
ただし、それが自分への恋愛感情なのか、それとも同情なのかはわからない。複雑で多感な時期だ。彼自身も良く分からないまま、ロイの熱情にほだされた可能性も高い。
無論、そうだとしても構わない、とロイは思う。過ちでも誤解でも、重要なのは彼が自分で選んだ、という事実だ。
そして多感な成長期の渦中にいるからこそ、性への衝動や興味は避けられない。彼はロイによって苦痛と、そしてそれ以上の快楽を知った。自分一人では決して得られない、そんな快楽を彼は知ったはずだ。
快楽を知った身体は、知らなかった頃には戻れない。そうである以上、ロイしか他人の身体を知らないエドワードが、自分を求めるのは当然だろう。
直接口頭で誘われたのは今日が初めてだが、本人は無自覚のまま、誘うようにどこか潤んだ視線を寄越してきたことは何度かあった。
(夜が待ち遠しいな)
口元が緩んでいるのが自分でも分かる。今なら、先ほどより余程上機嫌で仕事ができそうだった。我ながら、随分と単純で現金なものだ。
以前は知らなかった。一人の人間と会話することや、身体を重ねることを、こんなにも心待ちにできるなどとは。
ゲームとは、こんなにも違う。こんなにも、心が躍る。
彼の存在が、自分を作り替えていく。
これからもきっと変わるのだろう。彼の存在故に。
いたいけな子どもを毒牙にかけた、と人は言うかも知れない。言いたいなら言わせておけばいい。
静かに、来るか分からない彼が自分に恋する日を待つ、等という気長なことは自分にはできなかった。だから行動した。それだけのことだ。
そしてその行動を、自分は後悔していない。これからもしないだろう。
後悔する理由など、何一つありはしなかった。