二度目の本気

 夢を、見た。

 初恋の少女の夢だった。
 それは、確かな自分の中のトラウマだ。
 ―――本当に、好きだったのだ。可愛くて優しくて、少しだけ気が強いその少女のことが。
 …それなのに、彼女は言ったのだ。
「鳴海くん、怖いんだもん」
 その一言に、どれだけ自分が傷ついたのか知りもしないで。
「背が大きいのは大キライなの。ごめんね」

 
 ちちち、ちゅんちゅんちゅん。
 ……最悪の、目覚めだった。
 夢を見た。幼い頃の初恋が失恋に変わる瞬間の夢。
「…畜生」
 ずっと昔の思い出だ。だけど忘れられない。少女は結局、同じクラスのチビと両思いになってしまった。未だに、そのチビのどこが良かったのかわからない。自分の方が絶対に彼女のことが好きだったのに。
「…畜生」
 同じ言葉を二度呟いて、貴志は髪の毛を掻きむしる。本当に最悪の目覚めだった。

 ―――けれど、一つだけ不思議な夢だった。
 自分は今も少女の顔を覚えているのに、夢の中、少女の顔はあまりにもおぼろげだった。……それは、どうしてだったのだろう―――?



 失恋したあの日以来、貴志はチビがキライである。大キライである。
 それも当然だと貴志は思う。別に、今も初恋の彼女が好きな訳じゃない。今見ても可愛い子だとは思うけど、それだけだ。自分はそこまで女々しくはないし、女にだって不自由してはいないのだ。…だけど、チビはキライだ。未だに、ものすごく、とんでもなく。
 ―――チビは、鬼門だ。
 そう、貴志は思う。近寄りたくない。近寄られたくもない。きっと、災厄を呼ぶから。 …けれど、キライでもどうにもならない現実が、そこには存在するのだった。
「はい」
 にこ、とタオルを微笑みながら渡すのは大キライ、のチビだった。身長は多分百五十センチもないだろう。これが女の子なら小さくても問題は全くない。女の子はそれぞれ可愛い。背が低くても高くても。
 …しかし、タオルをくれるのは男だった。
「……」
 黙ってタオルを受け取ると、彼は別の人間へとタオルを渡しに走ってゆく。貴志を振り向きもしないで。それが、妙に腹立たしい。
 彼の名前は風祭将、という。サッカーの東京選抜合宿で辛くも補欠に残った。だからサッカーは特別下手ではないが、ものすごく上手いわけでもない。どちらかというと、小手先のサッカーだ。
 彼は補欠故に練習は参加できても試合は参加できない。だから試合の時は線審をしたり、まるでマネージャー紛いに今のようにタオルを配ったりする。これが実は内々では大変評判がいい。みんな表だっては口にしないが内心ちょっと楽しみにしている。もう一人補欠は存在するが、こちらに配られるのを「ハズレ」、将に配られるのを「当たり」と言う程度には。
「どうぞ」
 視線で追っていると、将が翼にタオルを手渡しているのが見えた。皆が楽しみにしているのはその笑顔だ。彼の口調は実に明るくて、健気で、そして笑顔が何とも良い、というのが一部の意見だった。補欠だからくやしいだろうに、それを表になるべく出さない彼はなんともどこか頼りなく、けれど心の強さが見え隠れする。
「ありがと」
 受け取りながら、翼が将に話しかけていたが、その声は聞こえてこなかった。けれど将がくすりと笑って、冗談か何かを言ったのだろうと見当をつける。 
(女、だったらなぁ)
 そう、貴志は思う。惜しいことに、将は男でさえなければ実はかなり貴志の好みだった。
 否、顔だけで言えば、翼の方が好みではあるのだが。翼も男だが背が低く、そして、顔はめちゃくちゃ可愛かった。初対面では女の子かと思った。一目惚れ寸前だった。しかし男で、ついでに性格が可愛くない。明らかに範囲外だった。
 ぞろぞろ、と監督へ向かって歩きながらちらちらと伺うと、将は相変わらず翼と話している。いつの間にかその周囲は竜也やら誠二やらまでがいた。
 ……将は、性格が悪くない。お人好し丸出しで、素直だ。顔も特別美少年、ではないけれど悪くはない。それこそ、笑顔が良い。だから女だったら確かに最高だった。弱そうなのに、案外図太いところもあるが、弱々しいだけの女よりも心の強い女の方が好みの貴志としては好ましい。…そう、女でさえあれば。 
 けれど、何度そう思ったところで風祭将は男だった。それは、変わらない現実なのだった。

 思えば、最初から将のことは気にはなっていた。理由は単純。大キライなチビだったからだ。だから意地悪も多少はしたし、さっさと消えろ、と思った。弱肉強食の世界なのだから当然だ。
 けれど、彼はその世界にどうにか生き残ってしまった。性格が悪くない彼は友達も多いらしく、いつでも誰かが隣にいる状態だ。すると当然のように彼は笑顔をそいつらにふりまく。くやしいけれど見とれそうになる笑顔を。
 それが、いつでも貴志は面白くない。大キライな相手がちやほやされるからだろう。
 自由時間ならばそれらを目の当たりにすることは滅多にないが、例えばそれが食事時間だったりすると最悪だ。将の周囲はすでに指定席となりつつあって、決まったメンバー以外はとても座れない雰囲気だ。しかも、やはりというか、彼の両隣、正面は人気があるらしく、それなりに熾烈な席争いがあるらしいことは暗黙の了解だった。…そして、その事実に将本人が気がついていないこともまた、有名な事実であろうが。
(…アホらしい)
 どんなに必死になっても将は男だ。意味がない。どうして、連中はそこまで必死で将の近くを確保しようとするのだろう。
「…そんなに気になるわけ?」
 くすり、と嘲笑まがいの声が聞こえた。
「…何がだよ」
 声の主は翼だ。男にしてはやや高めの、いかにも高飛車な声。
「将のこと、随分見てるからさ」
「見てねーよ。うるせぇな」
(やっぱり、チビは鬼門じゃねぇか)
 何が言いたいのかさっぱりわからない。けれど妙にむしゃくしゃする。これは絶対にチビが鬼門だからだ。絶対にそうだ。
 そう思いながら、食事を流し込む。バランスのとれたその食事はそれなりに美味いはずだったが、どういうわけか味はほとんどしなかった。



 夕食後は一応自由時間ということになっている。各自家族に電話したりゲームしたり、テレビを見たり、それぞれ勝手にやっている。貴志も大抵そのどれかをして時間をつぶすのだが、その日は生憎そんな気分にはなれなかった。
 電話をする相手がいないわけではない。家族はともかく、電話をする彼女はそれなりにいた。大きいのがイヤ、などと言ったのは初恋の少女くらいで、概ね自分の評判は悪くはないのだ。自分も女の子は好きだったから、連絡する相手はだからたくさんいるのだが、いまいち電話する気にはなれない。
 しかし、他の連中とゲームをする気にもなれないし、見たいテレビもなかった。やることが見あたらないまま、貴志はぶらぶらと歩き回る。
 別に、この生活に不満があるわけではない。自分は選ばれて当然の選抜合宿。結局の所自分もサッカーバカだから、それなりに楽しんでいる。勝つのは楽しい。できれば、それが強い相手であればあるほど。試合相手は年上で、だから満足に近い物はある。
 ――――――それなのに。
 どこか最近苛々している。いつでも。
 理由は分かっている。大キライなチビが自分の視界にいつでも入り込むからだ。
 ――――――そう、今も。 
建物の影でボールの物音。想像通り、彼がいた。こっそりとこんなところで練習をしていたらしい。
 もっとも、当たり前と言えば当たり前なのかもしれない。実力がないなら実力を身につけるしかないのだ。彼は小さい分、ハンデが大きい。それをカバーしなければならないのだ。無論、小さいなりの利点は存在する。するが、例えば貴志のようなパワーで押し切るタイプには、それらはひどく無意味に見える瞬間もあるのだ。…時として、ひどく驚くようなプレーにもつながったりも確かにするのだが。けれどそれは奇跡とよべるもの。今の彼では滅多にない。翼なら、確かに当たり前に呼び起こせているようだが。
 ……だから、だろうか。
 チビなのは、翼も将も一緒。けれどより将を見てしまうのは、苛々させるからだ。大したこともないクセにがんばるその姿に辟易とする。
 ぺろ、と少し乾いた唇を舐めてから、貴志は小さく笑う。多分、そうなのだろう。自分は本当に将がキライで、だから見てしまうのだ。…多分、泣き顔が見たくて。
 笑顔よりも泣き顔が見たいから。…キライでキライすぎて見てしまうから。
 ぽおん、とボールがこちらに飛んでくるのが見えた。どうやら蹴る方向を間違えたらしい。咄嗟に自分へと向かってくるボールに身体が動いた。
 とん、と足に吸い付くようにボールを受け取る。
「…鳴海?」
 ほとんどの友人をくん付けで呼ぶのに、何故か将は貴志を名字で呼び捨てた。それはどこか耳に心地良く、少しだけ気分が上昇する。
「俺からボール、取り返してみろよ」
 そのまま走り出すと、彼が追いかけてくるのがわかった。自分を目指して。それがますます何故だか楽しくて、つかの間のサッカーもどきの鬼ごっこが始まる。
 彼は反応全てが素直だ。全身全霊で、自分に立ち向かってくる。勝てもしないのに、勝てると信じているのか。それとも、勝つことを夢見ているのか。
「へっ」
 負けるはずがないのだ。自分が。チビなんかに。追いつかれるはずがない。決して、絶対に―――。
 けれどそれは一瞬だった。本当に一瞬の出来事。彼お得意の、視覚をついたフェイント。わかっていたはずなのに、一瞬彼を見失った。
(やべぇ)
 そう、思った時には遅かった。自分の足元にいたボールは、彼の足元に移行していた。
「取った!」
 その、彼の―――笑顔。
 筆舌に尽くし難いその笑顔。誰もが望むだろう笑顔に、くやしけれどやはり貴志は目を奪われた。
 体中汗だらけで、例えば可憐とか、華奢とかそんな形容は少しも似つかわしくない。どこまでも、少年のそのものの笑顔。……それなのに、目が離せなかった。
「あぁ、畜生!」
 ひどくくやしくて、思わず叫んだ。
 くやしいくやしいくやしい。 彼にボールを奪われたのも、目を奪われたのも。何より。
 ―――――――心を奪われた事実が、くやしい。
 男なんかに。男なのに。
「ありがと、練習つき合ってくれて」
 けれど彼は笑う。いかにも楽しそうに。…実際、楽しかったのだろう。いつでも彼はサッカーをしているとき楽しそうだから。
「別に、つきあったわけじゃねーよ。今のはまぐれだからな」
 くやし紛れで言うと、彼は微笑みながら言った。
「うん、そうだね。…でも、次はまぐれにならないようにがんばるよ」
 確かな負けん気の強さ。惜しまぬ努力と、何気なく勝ち気な性格。普段はどこかおっとりとしているクセに、こんな時彼は誰よりも強い瞳をしている。
 まぐれでなくても、次はボールをとれるようになるよ、と。そんな宣戦布告。
「…お前」
「何?」
「…やっぱりなんでもねぇよ」
 言いかけて、けれどやめた。どうでも良いことを言おうとしただけだから。
(お前、少しだけ似てるな)
 こっそりとそう思う。
 ―――「鳴海くん、怖いんだもん」
 そう、自分に向かって言った少女。誰にでも優しくて、可愛くて。…特に笑顔は可愛くて。そして何より、ちょっとした瞬間の、気が強いところが似てる。まっすぐに自分を見据えて、そうして遠くに行こうとするところまで。
 顔なんか、ぼやけるわけだ、と貴志は苦笑した。
 彼女を好きだったのは過去の自分。もう、彼女のことは本当に思い出でしかない。けれど、彼は―――将は、現在の自分が見ている。くやしいけれど、それはやはり事実なのだ。本当にチビは鬼門だ。こんなはずではなかったのに。まさか男なんかに惹かれるなんて、一生の汚点だ。
 彼を見てしまったのは少女に似ているからだろうか。だから、あの夢を見たのだろうか。
(……多分、違うな)
 多分、反対なのだ。将が少女に似ていたのではなく、記憶の中の少女が、どこか将に似ていた。だから夢に見ただけだ。
「…なぁ」
「何?」
 何故か二人でそろって歩き、部屋へと向かいながらそっと貴志は口を開いた。
「お前、背の高い男ってどー思う?」
「…へ?」
 きょとん、として将が問い返す。馬鹿馬鹿しい質問をしている自覚はあった。
 ―――「背が大きいのは大キライなの。ごめんね」
 多分、その台詞は忘れられる。鬼門は、鬼門のままでも。
「どう、って羨ましいよ? ぼくもあと四十センチくらい伸びたいし」
「…悪いが、それは無理だと思うぜ…?」
 真剣に言う彼に苦笑した。
「無理じゃないよ。絶対に。望んでがんばれば夢は叶う。…少なくとも、ぼくがここにいられるくらいの奇跡は起こるんだから」
 けれど彼は大まじめにそう返す。どこまでもまっすぐに前を睨んで。
 ―――それなら。
 自分はいつでも、彼の前にいよう。そうすれば彼は自分を見るはずだ。見ずにはいられないはずだから。どこまでも、…どこまでも。
「じゃぁさ、背が高い男は好きか?」
「……なにそれ?」
 更にきょとんとして、それから、笑った。
「…身長に関係なく、みんな好きだよ?」
 それは多分、友達や家族を思い浮かべての事だったのだろう。けれど、少なくとも身長が失恋理由にはならないわけだ。 
(OK、やってやるぜ)
 仕方ないではないか。惹かれたのは事実。それは、どうしようもない現実なのだから。悔やむより前に実行した方が良い。その未来がどうであったとしても、何もしないよりもずっと良い。
「俺は、チビは鬼門だけどな」
「…そうなんだ?」
「だけど逃げるのは趣味じゃねぇからな。…それに、勝つのは強い相手の方が良いに決まってる」
 言いながら、ちら、と視線を走らせる。おそらく、そろそろ姿を見せるはずだ。
「…そう、なんだ…?」
 どこかよく分からない、と言う顔で将は相づちを打った瞬間、当然のように(そして想像通り)翼がやって来た。
「見てないんじゃなかったの?」
 開口一番は、そんな台詞だ。いかにも貴志を牽制するような目つき。
「気が変わったんだよ」
「そう。…負けないよ?」
 二人のやりとりに、将は困った顔つきをする。喧嘩していると思っているのかも知れない。ある意味、間違ってはいないが。
「口だけじゃないと良いな」
「当然。俺は実力も備わってるからご心配なく」
「楽しみにしてやるよ」
 そう、強い相手に勝つのは楽しみだ。負けたりなんか、しない。くすり、と翼は笑い、自分も笑い返した。完全な、宣戦布告。それもまだ、たった一人目の。
「行こう、将」
「でも、翼さん…」
 当然の顔をして、将の腕をひく腕も、自分になることも可能なはず。だから、口を開いた。
「チビ。また明日もやろーぜ? 相手してやるからよ」
 翼は忌々しげな顔をし、将は笑みの形に口を曲げた。そして、元気良く返事をする。
「うん!」
 今は、チームメイトから始めよう。あるいは、友達でも良い。
 時間はまだあるし、ライバル達への宣戦布告もしなければならないから。
 
 初恋が、失恋に変わったのは小学生の時。本当に、本気で好きだった。夢に見るくらい。けれど、もう二度と夢見ることはないだろう。
 そうして。
 ―――多分、これは二度目の初恋。二度目の、本気だ。
 今度こそ、負けない。自分にも、鬼門にもそのほかにも。


 二度目の本気は始まったばかりだ。




 結末は、まだ誰も知らない。

                                  END