那 由 多 の 雫    2





 痛みと熱は良く似ている。

 その感覚を思い出したくはなかったが、否応なしに思い出す羽目になった。撃たれた腕は熱を持ち、痛みを訴えている。
(油断したな) 
 ち、と舌を鳴らしながら、そんなことを悠長に思う。周囲に注意を払ってみたが、人の気配はない。では、もう犯人は去ったのだろうか。
 用心しながらも上着を脱ぎ、急いで止血した。出血多量でこのまま倒れたら洒落にならない。
 そんなことを思いながら、適当に手当をすませる。弾丸がかすっただけだったから、血は流れたもののそう深手ではなかった。少なくとも、この腕でも痛みはするが拳銃を握ることは十分可能だ。
 改めて周囲をぐるりと見渡してみたが、人気はやはりない。街灯がぽつりぽつりと見えるだけの、夜の町だ。当然、歩く人影もなかった。
 時間帯は明け方に近い夜中。東部ではこの時間帯はどの類の店も閉まっている。
 奥まった売春宿ならまた別なのかも知れないが、その場所には若干距離があった。
(私を狙ったのか?)
 エドワードとの再会後、黙々と仕事をこなし、ようやく一区切りつけて家に帰ることになったのはつい先ほどの事だ。
 そうしてそうして家路へと急いでいる最中、誰かに尾行されていることに気が付いた。
 ――――――そうして。
 隠れる場所を探す間を与えるはずもなく、相手はロイへと銃を放った。よけたものの、完全にはよけきれず右腕に弾が掠り、傷を負った。
 今の状況を簡素にまとめれば、つまりそういうことだった。
 完全に自分の失態であることは間違いない。油断大敵という言葉は事実だな、等と実感する。
 腕が熱を持ち、痛みを訴えるのが忌々しい。この事を優秀な副官に話せば、さぞかし叱られることだろう。
そもそも、軍の施設からそう遠くない場所にあるからと、徒歩で帰ろうとしたことが間違いの始まりだった。普段はそうしているし、だから深く考えもせずとった行動だったが、軽率と言われればそれまでだ。
 仮眠室で眠ることも考えたが、何も知らない部下達に親切心で、『特に大きな事件もないことだし、自宅の方が熟睡できますよ』と言われて素直にそれもそうだな、と頷いた。
 この事態を全く予測できなかったわけではないが、悪戯だろう、と軽く見ていたことも事実だ。
 目を閉じ、己の感覚を研ぎ澄ます。人の気配を辿ることは得意だった。
 だが、周囲に気配は感じないままだ。
(命拾いしたか)
 それは自分が、なのか。相手が、なのか。自分でもわからないまま、空を見上げた。
 まだ日が昇るには少々時間がかかる。その闇は何も映さない。
 空を見ながら、それにしても、と思う。
(思い当たる相手が多すぎるというのは、実に困ったことだな)
 自分を狙ったとすれば、犯人は誰なのだろう、という当然の疑問。
 だが、残念ながら恨まれる覚えは山程あった。そのうちのどれか、だとすれば人数が多すぎてとても候補を簡単に絞りきれない。
 イシュヴァール人か、それとも自分達が捕まえたテロリストの残党か。それともテロに巻き込まれて死んだ人間の家族が軍を逆恨みしたのか。或いは、軍で自分を邪魔な人間が消しにかかったのか。
 いくらでも候補はあがってくることに苦笑する。だが、タイミングを考えると現時点では、あの手紙の主が一番の有力候補と考えるのが妥当かも知れない。
 ――――――人殺し。
 赤いインクで書かれた、その一言。
 悪質な悪戯などいくらでもあるし、だからその一つだろう、と流していたが、そうもいかなくなった。
 ―――ここに来る途中に頼まれたんだよ。あんたに渡してくれってさ。
 その女が犯人なのだろうか。だが、その女もまた、誰かに依頼され手紙を持っていた可能性がある。軍へと向かう人間にこの手紙を渡してくれ、といくらかの金を渡されて頼まれれば、頷く人間もいるだろう。
 もっとも、もし真剣に自分の命を狙うならば、手紙など送らずに暗殺を試みた方が成功率は高いと思うはずだ。あんな手紙を渡されては、小心者ならば警戒して殺めにくくなる可能性がある。
 そう考えると、結局結論など出るはずもない。
 第一、可能性だけで言うならば、たまたま無差別殺人を犯したかった人間と自分が遭遇した、ということもありえる。限りなく低い可能性ではあるが、絶対にない、とは言い切れない。
 可能性ばかりが頭を掠める。今はまだ、何もかもが不明だった。 
 確かなことは、一つだけ。
 誰かが自分の命を狙った、という事実だけだ。
(とりあえず、人気のない夜中の銃撃だったことは不幸中の幸いだな)
 少なくとも、自分以外に人間が撃たれた心配はない。夜町はあまりも静かだった。まるで死に絶えたように。
ちら、と家への道に視線を送ったが、くるりときびすを返した。今日は軍に戻り、仮眠室で眠ることにしよう。
 とりあえず、やられたままと言うのは性にあわないが、今は相手を捜しても無駄だ。だが、今日は腕を撃たれたが、そうそう何度も撃たれてやる気も、ましてや殺されてやる気もなかった。
(人殺し、か)
 思い出す、真っ赤な文字。
(その通りだ)
 自分は本当に、多くの人間を殺した。おそらく、これからもきっと殺めるのだろう。いくらでも、何人でも。
 その屍を踏み越えなければ手に入れられないと言うのなら、自分は躊躇いなく踏み越えてみせる。
 今までも、これからも自分は人殺しで在り続ける。
(どこの誰だか知らないが)
 口元だけで笑みを浮かべ、静かにロイは思う。ずきりと、微かに熱を持った腕が痛んだ。
(この痛み、倍にして返させてもらおうか)