指を鳴らすたびに命が消える。
何十と。何百と。
けれど、今更心は痛まない。疼くような良心はすでに持ち合わせていなかった。
(生きる)
悲鳴も、肉の焦げる臭いも。皮膚を切り裂く感覚も。心が動く理由にはならない。
ひたすらに煉獄の世界を織り上げ続け、自分は生きる。例え幾千幾万の赤い雫を乗り越えることになろうとも。それすらも、燃やし尽くして。
(生き延びて、みせる)
それは本能。或いは決意。
今、自分が正気か狂気か、そんなことすらどうでも良い。
ただ、生き残ることだけが目的だった。それが全て。全ては、そこから始まる。
(生き延びなければ)
死んだら、そこで終わりだ。自分が今、こうして屠っている命のように。
それを、人は地獄と呼び、悪夢と呼んだ。けれど。
―――過去という名の、『それ』は確かな現実だった。
那 由 多 の 雫 1
やけに元気な声が職場に響いたのは、穏やかな昼下がりのことだった。
いつもながらうんざりする程の書類に囲まれ、嫌々ながら仕事していると、隣の部屋から威勢の良い声が微かに聞こえてくる。そのことに気付いた瞬間、当然のようにペンの動きが止まった。
軍部でそんな声を出す人間など、ロイは一人しか知らない。怖いもの知らずの子ども、エドワード・エルリックしか。
程なくノックの音がして、予想通りの人物が姿を見せた。
「やぁ、鋼の」
自分の中でも最上級の笑顔で迎えたが、彼はそのことに気付いた様子もなく、よぉ、とおざなりに挨拶を返してくる。自分に対して愛想がないのはいつものことだったから、相変わらずだな、とだけ思った。
入室してきたのは彼一人。だが、彼が一人だけでこの町に来ることはそうそうあり得ない。おそらく、隣の部屋で弟が待っているのだろう。
「元気かい?」
「まぁな」
興味なさそうに返事をして、エドワードはロイの机へと視線を送る。そのあまりの量に、彼も驚いた様子だった。
「それで、用件は?」
「知ってる癖に聞くなよ。嫌な奴だな」
口を尖らせて告げる彼に、自然と笑みが浮かぶ。素直な子どもらしい、予想通りの反応。確かに、彼が来た理由など分かり切っていた。指を組み、微笑んで口を開く。
「今回はどの書類にサインすれば良いのかな?」
彼が自ら、この場所に訪れる理由はそれしかない。本来はロイは単に彼を国家錬金術師に推挙しただけで、後見人になる必要はない。けれど、彼は何しろ若すぎたし、何もかもが未知数で、結果的に推挙した自分が後ろ盾もつとめることになった。
最初、彼は後見など必要ないと突っぱねたが、現実はそう優しくないものだ。
軍人は頭の固い人間が多く、いくら優秀だとしても子どもというだけで舐められる。田舎にいる末端の兵士などは、国家錬金術師の存在自体、正確に認識していない場合もあるほどだ。そんな連中相手だと、国家錬金術師の証である銀時計も役に立たないことがある。
けれど、自分のサイン一つでそれは解消されるのだから、どんなに嫌でも彼としては自分に頼らざるを得ない。つまりはそういう事だった。
「これとこれ、あと、こっちも」
数枚の書類を仏頂面で手渡してくる。適当に文字を読み流し、内容を確認した。やはり、彼の身元を証明する為の書類ばかりだ。この際だからまとめてサインをもらおう、ということなのだろう。
「苦労しているようだね」
言うと、あっさりと彼は頷いた。
「勿論。で、どれくらい時間かかんだよ?」
目の前の書類は全てロイが目を通し、サインをしなければならないものばかり。それが終わってからエドワードの書類にもサインするとなれば、相当な時間が必要になる。その所要時間時間を尋ねられた。
「この程度なら今、サインするよ。待っていたまえ」
にっこり、と。貴婦人達が喜ぶ類の笑みを見せて告げると、サンキュ、と小さな声で彼が礼を言う。たったそれだけで至福な気分になれるのだから、自分という存在は随分お手軽にできているな、と我ながら思った。
エドワードにとっては、自分の笑顔などよりも自分の名前の入った書類の方が余程重要だと承知しているが、それでも彼に礼を言われるのが嬉しい。まるきり、子どもの恋愛のようだな、と自分を少しばかり哀れに思った。
「あ、そうだ」
サインをしていると、突然彼が思い出したように声を出した。何事かと書類から目を離し、彼を見つめると、コートから白い封筒を取り出す。
「ほらよ。確かに渡したぜ」
言いながら、机にとん、と手紙を置かれた。そのまま視線を落とすと、封筒の表面には自分の名が記されていることが読みとれた。間違いなく、自分宛の手紙らしい。
「君からのラブレターとは嬉しいね」
「んなわけねーだろ。ここに来る途中に頼まれたんだよ。あんたに渡してくれってさ」
呆れたように言われ、だろうな、と思う。彼が自分に恋文を渡すことがあり得ないことくらい、無論重々承知していた。
大方、町の若い娘あたりがくれたのだろう。恋文をもらうことは珍しくない。大抵は本人が直接手渡してくるが、部下経由でくることも何度かあった。
何気なく裏返してみたが、署名はなかった。
「どんな女性だったかね?」
実際は特別興味もなかったが、一応尋ねてみると、エドワードは首を傾げた。
「別に。普通の女の人だったよ」
「随分抽象的だな」
そっけない返答に苦笑を浮かべる。彼の台詞からは一体どの女性がこの手紙を寄越してきたのか、想像もつかない。だが、中身を読めば名前も書いてあるだろう。恋文の場合、大抵は愛の告白と署名、積極的ならば更に返事を求める文面と相場は決まっている。
「まぁ、ありがたく拝読するよ」
女の存在を拒んだことはない。浮き名もそれなりに流している。女は柔らかく男を包み、一瞬の安堵感を与えてくれる。その体温が恋しくて、男は女を求めるのかも知れなかった。
―――けれど。
「ところで、鋼の」
名を呼ぶと何だよ、と彼は自分を見つめる。金色の瞳はいつ見ても美しい。黄金の色がそんなにも美しいと知ったのは、彼に出逢ったからだ。
かつて、自分も女の身体をひたすらに愛おしんだ。無論、今だって嫌いなわけではない。だが、今はその柔らかな身体に包まれるより、この子どもを抱きしめたい、と本気で思う。
何がきっかけなのか。どうしてなのか。そんなことはすでにどうでも良く、結果だけが残されている。
気が付いたら、不様な程にこの子どもに恋い焦がれている自分がいた。―――それが、全て。
「ここには、いつまでいる予定かね?」
「調べたいことがあるから、一週間くらいかな。早ければ三日とか、そんなもん」
「なるほど」
相変わらず忙しい日々を送っているのか、長いとは言いかねる逗留だ。だが、仕方のないことだとわかっている。とりあえず、明日には去る、と言われなかっただけ良いと思うべきだろう。
「では、今夜待っているよ」
どこに、とは言わずそう告げると、彼はほんの少しだけ肩を竦めた。
「今日は無理。こっちは長旅で疲れてんだから少しは休ませろっての」
言われて、それもそうか、と思った。ふと掌に収まっている封筒を見て、少しは嫉妬でもしてくれたのだろうか、と思ったが、すぐにあり得ない、と思い直す。
この子どもが嫉妬する理由などあり得ない。自分は彼に恋しているけれど、この子どもはそうではないのだから。
「では、明日なら?」
「……気が、向いたらな」
そっぽを向き、そう答える。口調は相変わらずだったが、微かに顔が紅潮している。そんな様子が可愛い、と告げたらきっと怒るに違いない。
そうして怒った顔もまた、可愛いと思うけれど、言わない方がいいのだろう。言ってしまったら、拗ねたままこの町を去ってしまうに決まっている。そんなことになれば、次に彼に逢えるのはいつの日になることか。
「楽しみにしているよ」
本心から言うと、彼は少しだけ困ったような顔をする。おそらく、何と答えて良いのかわからないのだろう。聡いが、それでもやはり、子どもは子どもだ。
(そんな子どもに手を出したのだから、我ながら救いようがないな)
自嘲を込めて、そう思う。だが後悔はなかった。
そもそも、最初から自分の行動は卑劣でしかなかったのだ。奪うように、彼を抱いた。欲しい、というひどく単純で切実な理由から。―――まだ彼は子どもだと、そう理解していたのに。
もっとも、数々の便宜を図っていたせいだろうか。最初の夜こそ抵抗をしたものの、等価交換と思っているのか、現在は彼なりに納得した様子で自分と夜を重ねている。そうそう彼はこの町にやってこないから、それは数ヶ月に一度の割合でしかないが。
そんな事を考えながら手紙を脇に置き、彼の望む書類へと手を伸ばすとサインした。それが終わると赤い印を押し、完成させる。
「これで良いかな」
「あぁ。助かった」
幾分安堵した様子で書類を受け取り、トランクへとしまい込む。そうなると、彼にとってもう自分は用済みだ。
「じゃぁな」
別れの言葉を継げると、そう言って振り返りもせず彼は扉へと歩き出す。
「また、明日」
念を押すように告げて、ロイも彼を見送った。引き留めたい気もしたが、今は真面目に仕事をした方が身の為だ。それこそ、明日は残業をするわけにはいかなくなったのだから。
ぱたん、と扉が閉まり、部屋は静寂に満たされる。その変わり、扉の向こうは少し、賑やかになった。自分の部下達があれこれとエドワードに話しかけているのだろう。エドワードも、ロイに対しては愛想が悪いものの、部下達には笑顔もそれなりに見せる。
おそらく今頃、弟と二人、旅の話でも聞かせているのだろう。部下達もそれなり以上に忙しいはずだが、皆、生意気な子どもを構いたくて仕方ない様子だ。エドワードの弟であるアルフォンスも、本来は軍部の関係者ではないから、本来この場所まではそうそうやってくることはないはずだが、皆当たり前に部屋に通している。その程度には、エルリック兄弟はここに馴染んでいた。
それは本来、あの兄弟の年齢を考えれば歓迎すべき事態ではないのだろう。アルフォンスは軍人向きな性格をしている様子だが、エドワードはとてもそうは思えない。実際問題、目的さえなければ彼は決して国家錬金術師などにならなかったに違いない。
軍の狗と呼ばれることで、彼もそれなりに辛酸を舐めているはずだ。自分に対して、それを愚痴ることもなければ、嘆くことも決してないけれど。
だが、それでも彼は子どもだ。まだ、たった十五歳の。弱くもあり、脆くもある子ども。
だからこそ、早く彼の願いが叶うと良い、とロイは思う。彼は子どもだ。どこまでも真っ直ぐな。
けれど、もしも戦になり、国家錬金術師として招集されれば彼は暗黒を見ることになるだろう。彼がかつて見た地獄より、さらに陰鬱で凄惨な、地獄を。
毎日毎日、人を殺める日々。狂い、壊し、病んでいく。幾千もの血が流れ、幾万もの人間が消滅した。あんな地獄に、彼が行くことなどあってはならない。
願いさえ叶えれば、彼は軍を辞めるだろう。そして平凡な幸福を手に入れるはず。自分との縁も、そこで切れてしまうだろうがそれは仕方のないことだ。
最初から、これは叶うこととのない片恋なのだから。
自分は彼とは違う。自分はあの地獄を見た。……否、自分こそがあの地獄を彩った。人々の涙も汗も血液も、呻きさえも焼き尽くした。
そして自分自身も、野望という名の業火に焼き尽くされている。今も、昔も。ずっと。
彼の夢が叶ったら、その時はもう、自分たちの道が重なることはない。重なってはならない。
(…だが、自信がないな。困ったことだ)
もし、その時が来たら。自分は本当に、彼を手放せるだろうか。彼の幸福を祝うことができるのだろうか。
彼の幸福を願う一方で、自分の為に彼の不幸を紡ごうとする自分がいる。どちらも本音なのだから質が悪い。
くすりと小さく苦笑したが、そうそう休んでばかりもいられない。明日の為にも大人しく仕事を再開することにしよう。
そう考え、再びペンを手にしようとして、エドワードが先ほど手渡してきた手紙へと自然に視線が落ちた。興味はあまりないが、仕事に集中して手紙のことを忘れてしまったらさすがに失礼だろう。恋文だとしたら、それなりに誠意を込めた返事をするべきなのだから。そう思い、迷うことなくナイフで封を開き、便箋へと視線を走らせる。
それはとてもシンプルな手紙だった。
封筒も、便箋も、内容も。
それは恋文ではなかった。
赤いインクで、便箋にはただ一言、こう記されていた。
――――――『人殺し』、と。