「功兄、お願いがあるんだけど」
 非常に珍しい、と言うべき台詞を将が口にし、何事かと功は新聞から目を離した。
 真剣な口調。そうであるからには、それなりに深刻な話なのだろう。少なくとも、将にとっては。
「どうした?」
「…墓参り。行きたいんだけど、行って良いかな?」
 誰の、とは言わなかったが、想像するのは容易い。考えてみれば、墓参りに行ったのは日本を離れる直前だから、もう三年も前になる。
 日本に帰ってもう一ヶ月、というべきか、まだ一ヶ月、というべきか。ともかくそれだけの時間は経過していたが、帰国と同時に将は選抜合宿へと行ってしまい、その後はごたごたとしていて、今まで行っていなかった。
 将にしてみれば、遠慮して言えないのも無理はないだろう。自分と将は兄弟で。けれど、将が墓参りしたい相手もまた、将の家族だ。
 自分の両親の墓参りに行きたい、と思うのは、当然の心理だろう。けれど、『現在の』両親である二人や、兄である自分に遠慮してしまうのもまた、彼にしてみれば当たり前に違いない。
 本来、行きたいなら功や両親に遠慮などする必要など微塵もないというのに。
 もしかしたら、この一月、ずっとその事を気に病んでいたのかもしれない。
 だとしたら、気がついてやれなくて悪かったな、と思う。
「勿論、行って良いに決まってるじゃないか。じゃぁ、これから行くか」
「え、今日? 今から?」
 自分の台詞に、将は心底驚いた様子で大きく口を開き、ぽかんと見上げてくる。
 将としては、ただ自分に墓参りに行く許可を得たいだけで、まさかこれから行こう、と言われるとは少しも想定してなかった様子だ。
「思い立ったが吉日って言うだろ?」
 言うと、そうかもしれないけど、と、遠慮がちに同意する。
 実際、今日は功に予定などなく、良くある休日として、部屋でだらだらと過ごすつもりだった。それならば、彼の望み通り墓参りに行く方が余程健康的だろう。窓から空を見てみれば見事な秋晴れだし、出かけるには丁度良い。
 将にしても、誰かと約束がある様子でもない。おそらく、
いつも通りボールを抱えて河川敷あたりに行くのがせいぜいだと想像がつく。
 もう十八歳になるというのに、将は本当に相変わらずだ。以前のように、きらきらと大きな瞳を輝かせてボールを蹴る。そんなところは、亡くなった叔父―――将にとっては実父だが―――に良く似ている、と言うべきなのだろう。
「決まりだな」
 笑顔を浮かべて言うと、将も笑顔を浮かべて頷いた。
「ありがと、功兄」
「どういたしまして」
 わざとちゃかすように言いながら、車のキーを掌に乗せる。それが外に出よう、という合図になり、二人で玄関へと向かう。
(…墓参り、か)
 くすり。小さく笑みが浮かぶ。
(将はともかく、俺が行っても二人ともきっと喜びはしないだろうけどな)
「何?」
 功が笑ったことに気がついたのだろう。将に問われ、にこやかに笑った理由に嘘をつく。
「…将とちゃんとデートするのは久々だな、と思ってな。墓参りの帰りはホテルでも泊まろうか」
「な、……っ、功兄の馬鹿っ!」
 瞬間、彼は顔を紅潮させる。とても十八歳とは思えない初な反応を見せるのは相変わらずだ。自分と、―――義理であれ、兄である男と、肉体関係を持ってもう数年になるというのに。
「本気で言ってるのにつれないなぁ、将は」
 そう言ってみても、将は顔を紅潮させたまま、ぷい、と横を向いてしまった。
 そのまま何を言ってみても返事もしない。どうやら機嫌を本気で損ねてしまったらしい。
 だから、将は知らないままだ。
 功の笑顔が、普段将に見せるそれではなく、優しげな口調とは裏腹に、ひどく怜悧なものであったことを。
 知らないまま、将は歩き出す。

 …そう、何も。

 ――――――何も、彼が知る必要はないのだ。
 

■□■


 赤。

 朱。

 紅。

目的の霊園へと到着し、最初に眼を奪われたのはその色だった。
 霊園に存在するのは、無論無数の墓だ。少なくとも、功の記憶にはそれらしかなかった。けれど、実際はそれだけではなかったらしい。墓と小道を挟んだ反対側は山、というより丘状になっており、一帯は紅い花でうまっていた。
 眼を焼き尽くすような、その色に暫し呆然とする。
「…すごいや…」
 将もやはり驚いたのだろう。そう、感嘆の言葉を呟く。
 眼下には、何百という彼岸花が咲いている。
 紅い、紅いその花が。
 美しい、と。そう呼ぶには、あまりにも不安を呼ぶような、紅すぎる花の群れ。
「そういえば丁度彼岸花が咲く時期だったんだな」
 秋の彼岸に咲くから彼岸花、というかなりどうでも良いだろう記憶をたぐり寄せ、そう呟く。
 考えてみれば、そう不思議な取り合わせではないのだろう。霊園と、彼岸花というのは。寧ろ似合い、と言うべきなのかもしれない。思い出してみれば、今までこの時期に墓参りなど来たことがなかったから、この霊園がこれほどまでに見事に彼岸花を群生させているとは知らなかった。もしかしたら、それなりに有名なのかもしれない。
 不吉な花、と呼ばれるのも無理はないほど、その花は本当に紅かった。無限に広がるように咲いているからだろうか、それは紅蓮の炎か、鮮血を連想させた。   
 ――――――紅い。
 紅い、血を。
「なんか、怖いくらいだね」
 素直な感想を将が口にし、そうだな、と相づちを打つ。風に揺れるその花は茎が細く、今にも折れそうなのに、けれど、どこか力強い。
「まぁ、毒のある花だからな」
「そうなの?」
 きょとんとして将が尋ねる。
「俺の記憶が確かならな。でも飢饉の時は毒を抜いて澱粉を食用にしたはずだから、救いの花でもあるってことになるか」
 ……救い。
 それは、誰にとっての救いなのだろうか。
 自分か。彼か。それとも、これから向かう墓の主か。
 そうだとしたら、おあつらえ向きだ。この花の花言葉は悲しい思い出、なのだから。
「実際、彼岸花の別名は曼珠沙華で、これは梵語で『天上の花』だから、神聖な花なんだよ。多分な」
 そう更に説明すると、ふうん、と将は目を丸くしながら聞き入る。
「功兄、そんなこと良く知ってるね」
「元ホストは雑学も必要だからなー。見直したか?」
「うん」
 迷うことなく素直に頷く彼に、彼らしい、と苦笑する。
 くだらない雑学の知識にそこまで感嘆とされるとは思いもしなかった。
(でも、言わない方が良いだろうな)
 彼岸花、別名曼珠沙華。
 更に別名は、死人花、幽霊花、地獄花。
 そんなことは、知る必要のないことだ。ただ、紅い花とだけ知っていれば良い。
 そうして、しばらく二人でその花を見ていたが、やがて将を促し、彼の両親の墓へと歩き出す。
 夏の盆の時期には両親も来て花を生けたのだろう墓は、今は何もない。
 将に水を汲みに行かせ、その間に墓所の雑草を取り、適当に掃除をした。彼が帰ってきてから途中で買ってきた花を生け、線香を焚く。そんな、いかにも形式張った行動をしたあと、更に形式通りおもむろに二人で手を合わせ、目を閉じた。
 けれど、ここでの功の思考は明らかに死者への冒涜でしかなかっただろう。自覚があるだけ、始末が悪いと自分でも思った。
 やがて瞼を持ち上げてみたが、隣の将はまだ熱心に手を合わせている。余程、天上の両親に伝えたいことがあるらしい。
 その間、功はぼんやりと曼珠沙華を見つめた。
 紅い、紅い花。それはまるで、紅い闇だ。
 鮮血の色をした、闇。
 いつか自分がその罪故に落ちるだろう、闇の色。
 そんなことをぼんやりと自嘲気味に思っていると、不意に将が自分を呼んだ。
「功兄」
 視線を彼に向けると、ありがとう、と真面目な表情で彼は礼を述べた。
「もう良いのか?」
「うん。ホントにありがとう。もう、行こう?」
 頷いた頃には将は歩き出していた。
 それを追うように、自分も歩き出す。
 けれど、一瞬。一瞬だけ、振り返った。
 視界の隅で紅い花が風に揺れ、将の両親の墓は当然の事ながら先ほどと少しも変わらず、佇んでいる。
 それは功にとって、四角いただの石にすぎない。
 死者を尊ぶ気持ちも、残念ながら、と言うべきなのか持ってはいなかった。
 くすり。
 自然に、小さな笑みが浮かんだ。それは出かけに見せたのと同類の、ひどく怜悧な、歪んだ嗤いだ。
 そうして先ほど、目を閉じ、手を合わせて彼等に伝えたことをもう一度心の中で繰り返し思う。 
(天上で、見ていれば良い)
 ――――――彼も彼女も、善人だった。少なくとも、功よりは。
 だから彼等はきっと天国だとか、天上と呼ばれるその世界へと旅だったことだろう。
 地上とは遠い、遠すぎるその場所で、ずっと見ていれば良い。
 自分を。彼を。
 ――――――彼が、自分によって堕ちていく、その姿を。

■□■


「お前の両親は、強い人達だったよ」
 車に再び乗り込み、アクセルを踏みながらそう口を開くと、将が自分へと視線を送ったのがわかった。
「強くて、優しい人だった。二人とも」
「…うん」
 将には、両親の記憶など残っていない。それは、当時の彼の年齢を考えればあまりにも当然のことだ。けれど、彼にしてみれば、両親がどんな人たちだったのか知りたいだろう。
 今まで将は自分に聞くことはなく、自分もあえて言おうとは思わなかった。けれど、墓参りに彼が行きたがったことを考えても、それも自分達に遠慮をしていた故だろう。だとしたら、たいしたことは話せなくても、彼に伝えた方がきっと良いのだろう。
「典型的な、良い人で。だけど、芯は強かったな。……良く、似てる」
 そう、似ている。将は、とても両親に。彼等も、真っ直ぐで、強くて。優しい、本当に善人だった。
 そんなことを考えながら、けれど口では将が聞きたいだろう彼等の人となりや、エピソードを告げる。そのたびに、彼が少しばかり寂しそうな、けれど嬉しそうな笑顔を見せた。
「将が生まれたときは大騒ぎだったよ」
「そうなんだ?」
「あれからもう十八年も経過したのか、と思うとなんだか不思議な気がするな」
 記憶は鮮やかだ。子供だった自分が、両親に連れられて病院へと行った。父は結局は妹―――将の母だ―――を溺愛していて、母もつきあいよくいそいそと病院へと向かった。
 母親になった喜びに、彼女は輝いていた。愛おしそうに生まれたばかりの将を抱き、微笑む。ありふれた、当たり前の母親姿。それが、彼女にとっては幸福の証であったに違いない。
 もっとも、功はそれらをガラス越しに見ていた。どんな理由かは忘れてしまったが、子供は入ることが許されなかったから。
 ただ、笑う彼女と、そして。
 彼女の腕の中にいる、将を見ていた。
 それはそんなに長い時間ではなかったように思う。自分は特別子供好きではなく、単なる従兄弟の誕生に、感動をしたわけではなかった。生まれたばかりの赤ん坊は不思議な生物で、だからぼんやりと見ていたにすぎない。
 けれど、ある瞬間、確かに将と目があった。
 それは思いこみなのかもしれない。または、偶然なのだろう。
 けれど、確かに。その瞬間、将は笑った。
 功を見て。功にむかって。
 いとけない子供。小さな、赤ん坊。
 ――――――何故だろうか。
 その時、功は守らなくては、と思った。
 この子を、守るのは自分なのだと。自分が守るのだと思った。この子供は自分のモノだ、と。
 本当に、何故だろう。何故、あの時、あの瞬間。自分はそう思ったのだろうか。
 赤ん坊は好きではなかったはずなのに、けれど将だけが例外にあの瞬間、なった。
(あれも一目惚れの一種だったのかな)
 そんなことを思ってみるが、さすがにそうではないだろう。自分も確かに子供だったし、将も単なる赤ん坊でしかなかった。
 だから本当に、恋愛感情の欠片も存在などしていなかった。
 ―――いなかったけれど、ただ、独占欲は確かに存在したのだ。
 将を当たり前に抱き締める女性が、その時初めて邪魔だと思った。
 忌まわしいと。
 そう、確かに思った。
 それは純粋な悪意だ。子供故の、無邪気な本気。あの赤ん坊が欲しいのに、彼女がいるから手に入らない。そんな、あまりにも単純な思考。
あの頃から、自分は人間として壊れていた。否、もしかしたら最初から壊れていたのかもしれない。
 そんなことを頭の片隅に思いながら、けれど口では微笑ましい、と思えるエピソードを更に重ねた。
「そんなの覚えてないよっ。それに、赤ちゃんなんだから仕方ないじゃないかっ!」
 赤ん坊の将がどれだけやんちゃだったかを面白おかしく話すと、顔を紅くして将はそう言う。それは全くその通りだが、その素直な反応が愛しい。そうして、ぷい、と顔を自分から反対側の窓へと背けた。
「…あれ? 帰り道、違うよ?」
 怒っていたのか、拗ねていたのか。ともかく、その事実も忘れ、驚いたように言う。実に目敏くて、功の方が驚いた。 
「ホテル行こうか、って言っただろ?」
「行かなくて良いってば!」
 顔を紅潮させたまま、力強く彼は言う。
「俺は行きたい。……最近、将は冷たいなぁ」
「冷たくされるようなこと、功兄が言うんじゃないか」
 なるほど、それはその通りだ。
 それは全て、彼が愛しい故だが、将にしてみれば間違いなくありがた迷惑だろう。それは功にも容易に想像できる。だからと言って、改めてやる気など微塵もないのだが。
「どうしても行きたくないか?」
「行きたく、ないっていうか…」
 言い方を柔らかくすると、彼は困ったように言葉を濁す。
 彼の扱い方は良く知っている。誰よりも。
「行かないなら行かないで車の中でしても良いけどな。それはそれで新鮮で」
「……っ」
 何をするのか、察しない程鈍くはなかったらしい。言葉を失いひたすらに驚愕の表情を浮かべる。
「…こ、…ィの、馬鹿っ…!」
 おそらく功兄の馬鹿、とでも言っているのだろう。発音としては意味不明だが、彼の表情からそれらが読みとれた。
「ホテルと車。将はどっちが良いんだ?」
「ふ、普通にっ、……マンションで良いよっ」
 とりあえず、すること自体は了承の返事をよこし、やはり赤面したまま彼はそう言う。それは一応、妥協なのだろう。
「ホテルか車」
 けれど、その妥協だけでは足りなくて、もう一度そう繰り返す。
「両方、でも俺は良いけどな」
「………」
 基本的に自分は将に甘いが、一方でこんな時、強引なことも将自身良く知っている。
「……ホテル」
 やがて、小さな声でそう呟くように言った。少なくとも、実際車内よりは賢明な選択だろう。
「了解」
 に、と笑い、アクセルを踏む。実際は別にどの場所でも良かった。ただ、彼が抱きたかった。
 ――――――天上の彼等に、見せつけるように。 
「……功兄」
 しばらくの沈黙の後、将が口を開く。
「何だ?」
「……もっと、聞いても良い?」
 先ほど中断した両親の話を再び将が聞きたがり、功は了承する。思い出したことを次々と彼に聞かせた。
 彼が誕生して、それは確かに幸福な時間だったこと。それから、あの日の事を。
「朝はなんでもない、本当に普通の日だったよ。薫さんがお前を母さんに預けて、それじゃ空港に行って来ます、なんて笑って言ってた」
 将は何も言わない。ただ、耳を傾ける。
「あの日、薫さんは風邪気味で、だから運転は母さんが代わろうか、って言ったんだ」
 ―――大丈夫です。さっき、薬飲みましたから。
 そう、彼女は言った。功を見て、微笑みながら。
「後になって、母さんはすごい後悔してたよ。やっぱり自分が運転すれば良かったって。……それでどうなったのかは、俺には分からないけどな」
 そうしたら、どれだけ未来は変わったのだろう。将の両親は今も生きていたのだろうか。それとも、やはり事故は起きて、彼の父と、そして自分の母が死んだのだろうか。
 それは功には分からない。ただ、現実としてその後の事故で、将の両親はこの世を去ったという事実だけが残るだけだ。
「……事故は、どうして起きたの?」
 小さな声で、彼は問う。どうして、彼等は死んだのか、と。
「相手側の居眠り運転だって聞いた。俺も当時は子供だったから、詳しいことは何も教えてもらってない」
「……そっか」
 小さく、息をつく。そうして、自分を見つめ、礼の言葉を再度口にした。
「ありがとう。功兄」
「いや。……悪いな。こんな事しか話せなくて」
「ううん。嬉しかった」
 無理に作ったのだろう笑顔で、そう彼は告げる。
 片手で彼の頭を、ただ撫でた。
「本当に」
 そうして、口を開く。遠い遠い、空を見上げて。

「不幸な事故だった」

□■



 ホテル、と聞いて将はどうやらラブホテルを想像したらしいが、功が選んだのはありふれてはいるが、一流ホテル、と呼ばれる場所だ。
 到着すると、とりあえず将はその場所が自分の想像と違ったことに心底安心した様子だった。
(でもまぁ、どのホテルでもやることは変わらないけどな)
 そんな事をやや意地悪く考えながら、チェックインをすませ、案内された部屋へと入室する。本来ならスウィートルームに宿泊したいところだが、力一杯将に反対されて諦めた。これが女なら大抵の場合は喜ぶものだが、将が相手ではそうもいかない。彼の場合は余計に気恥ずかしいのか、それとも経済観念の問題か、―――実際は両方なのだろうが、欠片も喜びはしなかった。それは例えば、プレゼントにしても同じ事で、高価であれば高価である程、将は申し訳ながるばかりであることが常だ。
(女だったら、か)
 例えば、将が女であったならば、多少現在の自分とは違う未来が待っていたに違いない。そもそも、自分はホストになどならず、おそらく両親の望むエリートコースを歩いただろう。そうして、今頃は将と婚約くらいはしていて、両親としては満足としか言いようのない状態だった可能性が高い。
 彼が女であれば、結婚という名の束縛が可能だ。それは書類上の儀式でしかないが、気休めにはなっただろう。
 けれど、自分が将に惹かれたのは結局のところ、彼が彼であったが故だ。そうである以上、それは考えてもあまりにも無意味な未来だった。彼は男で、自分も男で。それでも、自分は彼を欲している。手段を選ぶ気もない程に。
「―――っ、ちょっ、……っ」
 無防備なままの彼を抱き締めると、彼が腕の中で暴れた。
「シャワーとかっ、まだだしっ…」
 功の手から逃れようとしながら、そう将は言う。せめてそのくらいの時間は待て、ということらしい。
「じゃぁ、一緒に入ろうか」
「……功兄、悪戯するからヤだ」
「悪戯って、例えばこんな事とか?」
 くすり。笑って、彼の衣服の内側へと手を伸ばす。
「…功、…ィっ…!」
 本人は抗議のつもりだろうその表情は、どう見ても功を煽っていた。
 彼程に、無意識のまま自分を誘う人間は存在しない。
 そして自分を溺れさせるのもまた、彼だけだ。
 いつから、彼への思いは単なる独占欲から、恋心へと変化したのだろうか。子供の頃は、単純に物への執着にも似た感情だったのに、気がつけば彼を欲望の対象として見ている自分がいた。
 そうして自分が望むまま、彼を抱いたのは功にとってはあまりにも当然の成り行きだった。彼自ら、自分の懐に飛び込んできたのだ。どうして、そのまま自分を押さえ込むことなどできるだろうか。
 欲しい存在が目の前にいて、そして手に入れられる、その状況で。  
「や、……んっ」
 彼の身体の事など、彼よりも余程良く知っている。どこが弱いのか。どこが良いのか。全部。
 するすると彼の衣服を脱がしていく様は、我ながら器用だと思う。無論、なんの自慢にもなりはしない上、後で将に怒られる可能性は高いのだが。
 やがて将を全裸にすると、ひょい、と抱き上げてバスルームへと向かう。
「こ、功兄っ…、じ、自分で歩けるよっ…!」
 その状況も将にはお気に召さなかったらしいが、無論無視した。都合の良いことに、バスルームは一般家庭のそれより余程広く、男二人でもそう狭さを感じさせない。
 シャワー寄りの壁際で彼を腕から下ろしてやると、彼はひどく不機嫌な表情をしている。
「怒ったか?」
 微笑しながら尋ねると、将は横を向く。
「返事しないって事は、怒ってないって事だな。じゃ、遠慮なく」
 将としては答えたくもない、という意思表示をしているのだろうが、功にとって都合の良い解釈をし、言葉通り行動する事にする。答えたところで結果は同じだったが。
「違っ…!」
 将は慌てて否定しようとするが、どちらにしろ無駄だった。先ほどと同じように、彼の身体の中でも特に触れられると弱い部分ばかりを選び、触れてゆく。それだけで、彼の身体の色は紅く染まり、吐息が荒くなったのが分かった。
 彼はすぐに自力では立てなくなり、促すと少しだけ悔しそうな顔をしながら、功の首へと腕を廻す。 
 自分も将の腰を支えながらキスをすると、わずかにだが答えてくる。この状態で功が途中でやめることなどあり得ないと身体で知っている彼としては、賢明な判断だろう。ここで暴れでもしたら、余計に功を煽るのは必須だった。
「―――っ、ん…」
 角度を変えながら何度もキスし、舌を絡める。それが深くなればなるほど、一層将の身体から力が抜けていく様子で、より強く支えてやる必要があった。
 唇を離し、彼と視線を合わせると、すでに彼の目はとろりと熟れている。上気した肌。未だ幼さが残る顔立ちなのに、こんな時の彼の表情は、妖艶といっても過言ではない。
「…ん、…ゃっ…」
 将の項に舌を這わせながら、彼の窪みへと指を移動させると、わずかに抵抗にも似た動きを見せる。それは反射的なもので、彼の本意ではないことがその声音から知れた。
「―――痛、…っ」
 指を差し入れた瞬間に小さく彼が呻いたが、構わず奥へと指を進ませる。ぎゅぅ、と彼が捕まる腕に力を込めた。
 熱く、狭いその部分は、けれど功の指を誘い込むように蠢く。功という雄を知っているからこその、その動き。
「嘘つきだな、将は。欲しい、ってここは言ってるぞ?」
 嗤いながら指を蠢かすと、そのたびにぎゅうぎゅうと締め付けられる。それは彼の貪欲さを確かに示していた。 
「…違…っ、ん、……ぁ、…」
 身体は悦んでいるのに口先だけ、彼は否定した。
 その証拠に、やがて彼は強がることも諦め、催促の言葉を口にする。
「…早、くっ…」
「何?」
 彼が言いたいことは分かっていたが、意地悪く問う。
「―――っ、…功、にィ、…のっ、……奥、…して…っ」
 途切れ途切れではっきり聞こえないのが残念だったが、羞恥を堪えて、直接的な誘いの言葉を口にされれば頷かないはずがない。指を抜くと、彼の望み通りに彼の最奥の部分へと、自身を進ませた。
「ひぁっ…、―――っ、…ぁ、ンっ…」
腰を前後させると、感極まった、いかにも感じきった声を漏らす。
「イイか?」
 問うと、すでに将の思考能力は飛んでいるのだろう。こくりと浅く頷き、無意識に腰を揺らす。淫猥なその動きは、先ほどの彼からは想像もつかない媚態だった。
「ん、……あっ、―――あぁ…っ…」
 彼の猥雑な内壁は功を捉えて離さない。もっと、と、まるで強請るようだ。誘われるまま己の本能に忠実に動き、そのまま彼の最奥の部分へと飛沫を注いだ。
「あ、……っ、……んっ…!」
 その瞬間、一際彼が功を締め付け、彼も終わりを告げる。
 白い液体が床に散り、将は腕にすら力を込められず、ずるずると座り込んだ。彼が困ったように自分を見上げる。
 そんな彼の腰に手をやり、功は笑って口を開く。
「勿論、まだ終わってないことくらい分かってるよな?」
 無論、拒否を意味する答えを聞くつもりは毛頭、なかった。
 

■□■



 行為故なのか、単純に彼が寝不足だったのか。ともかく、将はすやすやと功の腕の中で幸福そうに眠っている。
 何も知らないまま。…永遠に、知ることはないまま。
(不幸な事故、か)
 将を緩い力で抱きながら、声を出すことなく功は先ほど言った己の台詞を呟く。
 そう。本当に、不幸な『事故』だった。
 あの日。――――――あの、運命の日。
 薫が風邪気味だったのは偶然だ。それに対して、自分が風邪薬を渡したのは、少しも不自然な行為ではなかった。実際、薫は感謝し、笑ってありがとう、と言った。
 けれど、その薬は眠気を誘う副作用があった事を、彼女は知っていたのだろうか。
 おそらく、知らなかっただろう。普段は薬を滅多に飲まないと父が言っていた。だから彼女が功が差し出した薬を飲んだのは、功の気遣いを断れなかったか、それとも、滅多に飲まない薬を飲もうと思う程、症状が重かったのか。それとも単純に、なんとなく、だったのか。
 その理由は知らない。功にはどうでも良いことだ。
 ともかく、彼女は薬を口にした。そうして、彼の夫と共に車に乗り込み、そして。
 ―――そして、帰らぬ人となったのだ。
 永遠に。
 二人の遺体の損傷は激しくて、当時子供だった功は見ていない。もしかしたら、両親も見ていないのかもしれない。覚えているのは、人間の形をしたものに、白い布がかけられていた、その様子だけだ。
 それはまるで人形のようだった。デパートのマネキンが横に置いてあるような、そんな錯覚。叔父と叔母が亡くなったというのに、無感動にそんなことしか思わなかった。
 相手側の居眠り運転が原因の事故。不幸な、不幸な事故。
 現実はそれだけだ。そうして、若い夫婦がこの世から去り、幼い子供だけが残された。
 その子供を自分の両親が引き取ることになるのは、当然の流れと言えるだろう。
 彼女と。彼がいなくなりさえすれば、そうなる事くらい、当時の功にだって容易に想像できた。
 けれど、それは事故だ。
 どんなにその事態を功が願っていたとしても。
 功の都合通りに、動いたのだとしても。
 事故は、事故でしかない。
 功はただ、薬を薫に勧めただけだ。良く効く薬だから、と。幼い将に風邪が移っては良くないと。そう言っただけ。
 飲んだのは彼女の意志だったし、何も問題などあるはずんない。
 ―――けれど。
 けれど、おそらく彼女は車の運転をしながら睡魔に襲われただろう。それに、彼女は必死に耐えていたに違いない。
 本来なら、それで問題はきっとなかった。無事にたどり着ける可能性の方が、きっと遙かに高かったはずだ。
 だからやはり、それは『不幸』な事故だったのだ。運悪く、対向車が居眠り運転をしていたのだから。
 もしも。
 もしも、彼女が薬を飲んでいなかったら。眠気に襲われていなかったら、或いは上手くよけられたのかもしれない。
 そう、もしかしたら。
 あの時、薬さえ飲まなければ彼女は今も生きていたかもしれないのだ。
 あくまでも、それは仮定でしかない。現実にはならない。薬を飲まなくても、二人は事故にあったのかもしれない。助かったのかもしれない。それは、誰にもわからない。興味も、もはやない。
 ただ現実は、そこにある。
 将がこうして自分の腕に抱かれ、眠る。この現実が。
 恋になる以前から、自分は彼を欲していた。恋に変化してからも、より深く彼を欲した。それだけの話。
 事故にあった瞬間、彼女は、彼は何を思っただろうか。己の血に染まりながら。
 紅い闇に彩られ、そして天上へと導かれながら。
 将の心配を、したのだろうか。
 けれど将は天上へは昇らせない。自分が彼を抱いたまま、闇へと堕ちるのだから。
 あの曼珠沙華のように紅い、紅い闇へと。
 紅い、紅い天上の花。美しい、鮮血色の花。悲しい思い出という花言葉を持つ、花。
 本当に、なんとあの二人に似合う花であることか。
「……功、にィ?」
 うっすらと瞼を開き、将が己を呼んだ。どうやら起こしてしまったらしい。
「……何でもないよ」
 そう。なんでもない。邪魔者は、もういない。彼等には見ていることしかできない。
「おやすみ、将」
 おやすみ。良い夢を。
 小さく嗤い、功も目を閉じる。来年も、再来年も墓参りには行こう。それを、将が望むだろうから。
 そうして、そのたびに。あの紅い花が咲き続けるのを見守ろう。

 ただ、咲くことしかできないその花を。

END