ホテルまで送るという自分の申し出に、意外なことにエドワードは拒否反応を示さなかった。いつもの彼なら大仰に表情を変え、必要ない、と断固言い張るというのに、実に珍しいこともあるものだ。
 否、昨日から、珍しいことばかりだ。今までとは違う反応、態度をちらほらと見せる。そのたびに、自分は驚いている。
 けれど、或いはそれは彼が大人になりつつある証拠なのかも知れない。出会ったときは十一歳。それから五年の月日が経過し、彼はいろいろなことを経験した。
 おそらく、国家錬金術師になったことを後悔したことも一度や二度ではないだろう。それは過酷な道だ。けれど彼はようやく自由を得た。これからはいくらでも幸福な未来へと歩くことができる。
 彼は幸福になるだろう。幸福になると良い。自分の知らぬ場所で、知らぬ人と。
(……)
 そこまで考え、やはり、心から喜べない自分を再認識した。ホテルまでの距離は、近いとは言えないが遠いとも言えない。どちらにしろ、今の自分ではどんなに長くても刹那に思えてしまうだろう。
「最近寒いけど、今夜は特に冷えるな」
「そうだね。君には少し、辛いかもしれないな」
 そこまで言って、気付く。思わず苦笑した。それは彼が機械鎧の手足を持っていた頃の話だ。
「すまない」
「謝ることじゃねぇだろ、別に。それに、オレも自分の手足が機械鎧じゃないんだって事実を忘れるときあるし。第一、寒いときは機械鎧じゃなくても寒いしな」
 言って、エドワードは笑う。陰りなど少しもない、健やかなその微笑に、ロイの口元も緩んだ。
「それは、確かに。北部など寒いと言うより痛いほどだった」
「だな。それに比べりゃ中央は過ごしやすよなー」
 そのまま、エドワードはあれこれと北部の思い出話をはじめ、しばらく聞き入りながら歩いた。
 吐く息は白く、闇は暗く、遠く光る星が輝く。澄んだ空気が心地良く感じられるのは、最近建物のなかで過ごし書類ばかりを眺める日々を送っているからだろう。こんな風にゆったりと歩くのは随分と久しぶりだった。この時間が永遠であれば良いと思うのは、自分のいじましい未練だろう。そんな自分に自嘲するしかない。
「あれ?」
 不意にエドワードが足を止めた。何事かと彼の視線を追うと小さな公園が見える。
「こんな都会に公園なんかあるんだ」
 つい先程、中央の華やかな夜の街を通りすぎたせいだろう。驚いた様子で呟く。
「ここからあちら側は住宅街だからね」
「へー、そうなんだ。良くそんなん知ってんな」
 中央へは彼も何度か行ったことがあるはずだが、どうやらこのあたりは初めてらしい。公園など、特別珍しくもないだろうに、じっと視線を向けている。
「私の家も、ここから近いからね」
「あ、そっか、大佐、今は中央に住んでんだもんな」
 尚も視線は公園に釘付けだ。ならば、と口を開く。
「寄っていくかい?」
 半ば冗談のつもりだったが、彼はこくりと頷いた。それが意外で、思わず目を見張る。
「リゼンブールには、公園なんてなかったし、旅してた頃は休む場所って程度にしか認識してなかったからさ。なんていうか、ちゃんと見てなかったんだ」
 その言葉になるほど、と思う。彼の故郷、リゼンブールは緑溢れる村だ。子どもの遊ぶ場所はいくらでもあるだろう。わざわざ公園など作る必要などなく、だから存在しない、というわけだ。
 歩を進めると、間もなく公園にたどり着く。寒い季節だからだろう。恋人達の姿もなく、夜の公園は無人だった。
「静かだな。ちょっと歩いたら、あんな賑やかなのに」
 しん、と静まりかえった公園で空を仰ぐと、星々が更に輝いているような錯覚すら抱く。彼の言うとおり、少し歩けば賑やかな都会だと言うのに、まるで別世界だ。
「ベンチに座ろうか」
 言うと、やはり彼はこくりと頷く。そのまま、黙って二人、公園のベンチに腰を下ろした。
「リゼンブールは、もっと空が近くて、星が大きかった」
「それは綺麗だろうな」
 都会はどうしても星が遠く、小さく見える。それでも、ロイにしてみればこうして見る星空は十分美しかった。こんな風に、ぼんやりと星空を見上げるのは随分久しぶりだと思う。
 リゼンブールの星空は、こうして見上げる空よりも、エドワードの言うとおりもっともっと美しいのだろう。
「……あのさ、大佐」
 小さな、小さな声でエドワードはロイを呼ぶ。それはひどく躊躇い勝ちでか細かった。
「何かな、鋼の。……あぁ、もうその銘では君を呼んではいけなかったな」
 先程から、自分はどうしようもない些細なミスばかりだ。彼とは会えなくなる、そんな単純な事実に打ちのめされているからだろうか。覚悟をしていたはずなのにと、苦笑が深くなる。
「別に、大佐の好きに呼べば良い。確かに国家錬金術師の地位は返上したけど、その銘は結構オレ、気に入ってんだ」
 そう告げる、彼のもう鋼ではなくなった右手に視線向ける。癖なのか、それとも寒いからか、以前と変わらず、その手には白い手袋をしていた。
「重い名だろうに」
「背負う価値があるくらいにはな。……それに。あんたに、銘を呼ばれんの、嫌いじゃなかったしさ」
 その言葉に、半ば呆然と彼を見つめた。エドワードはその視線に気付いて、照れ笑いを浮かべる。そんな表情を自分に見せるのは、実に珍しい、希少としか言えない事態だった。
「五年前。あんたに、逢えて良かったって思ってる」
「鋼の?」
 思わず、呼び慣れた名で彼を呼んだ。すると、彼はふわりと笑う。柔らかく、優しく。
「あんたがリゼンブールに来て。オレを叱って。だから、オレは国家錬金術師になったし、アルも元に戻れた」
 それは今日が最後だからだろうか。だから、そんな風に、彼は言うのだろうか。優しく、甘い表情で。大切な思い出話をするように。
「私も。……君に会えて良かったと、そう思うよ」
 そして一方で思う。逢わなければ良かった、と。
 あの日、あの書類が間違っていなかったならば、自分は彼と会おうと思っただろうか。おそらくは、思わなかっただろう。
 そうすれば、今夜など来なかった。自分は彼に恋しなかった。そうであれば、どれほど自分は安寧な気持ちでいられただろうか。
 いつだったか、エドワードたちが、自分たちの家を燃やしたと聞いたことがある。
 その日を、銀時計に刻んだのだ、と。忘れない、忘れてはならぬ日を。銀時計と心に刻んだと。
 おそらく、それと同じように。自分も、五年前のあの日。彼と会ったあの日を、心に刻んでいた。
 それは記念日のようなものだ。自分は存外、ロマンチストだったらしい。気がつけば、忘れられない日となっていた。
「本当かよ?」
「疑うとはひどいな。本当に、君に出会えて良かったと思うよ」
 自分の心を見透かすかのように、エドワードが問い、ロイも答える。それは確かに、自分の中の真実だった。ただ、真実は一つではなかった、というだけで。
「そっか」
 そこで一度、エドワードは言葉を切った。そうして、空を見上げ、やがて立ちがある。
「大佐。オレ、軍人になろうと思うんだ」
 それは彼が自分に与える、何度目の驚愕だっただろうか。聞いた瞬間、何を言っているのかわからなかった。
 理解した後は、何を言っているのかと、やはり思った。
「やめた方が良い。君は軍人には向いていない」
 思わず断言すると、エドワードは苦笑を浮かべる。やっぱり、とでも言いたげに。
「言うと思った。アルにも言われた。ウィンリィにも、ばっちゃんにも、師匠にも」
 それはそうだろう。彼を良く知る人間ならば、止めて当然だ。軍人を良く思わない人間は多い。今後は更に多くなる可能性もある。
「けど、今、決めた。多少はオレも悩んでたけどさ、今、わかったんだ。オレの夢。……やりてぇことが」
 今までは、ひたすらに賢者の石を探していた。求めていた。そして弟の肉体を取り戻すことが、彼の生きる理由であり目標だった。――そして、願いは成就した。
 そんな彼の、新たな夢。やりたいこと。それが、軍人になることだ、とでも言うのだろうか。
「士官学校行って、卒業したらあんたの部下になってやるよ」
 ひどく真っ直ぐな視線を自分に向け、エドワードはそう言った。
「……何、を」
 声が自然、かすれた。彼は今、自分が何を言っているのか理解しているだろうか。自由の身になり、これからは彼は彼のために生きていける。だと言うのに。
 今まで、ロイがしてきた事柄に対して、恩を感じているからだろうか。だから、恩返しをしようと考えたのか。けれど、それは一生を左右するかも知れない選択だ。
 そして自分にとっては、ひどく甘い誘惑でもあった。
「鋼の。すぐに結論は出さないで良く考えた方が良い。でなければ、後悔することになるかもしれないからね」
「考えた。当たり前だろ」
 ようやくの思いで諭すように言葉を紡ぐと、あっさりと彼は断言する。その顔に苦悩も躊躇いもなかった。
「考えて、わかったんだ」
 ひたすらに、真っ直ぐな視線は揺るがず、そらされない。そのまま、ゆっくりとエドワードは再度口を開く。それはまるで、時が止まったかのように思えた瞬間だった。
 そして彼は、その言葉を紡ぐ。

 ―――――あんたの、側にいたいんだ、と。




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