気 ま ぐ れ な 引 力





 鋼の錬金術師が恋をしているらしい。
 ――――そんな噂を耳にしたのは、うららかな春のことだった。

「もしかして、ご存じなかったんですか?」
 不思議そうに尋ねられたが、実際知らなかったのだから仕方ない。苦笑を浮かべた。
「初めて聞いたよ。そうなのかね?」
 問うと、目の前の女性はええ、とそれはそれは愛らしい笑顔で頷いた。
「私たちの間では大評判なんですよ。だって最近、彼ってすごく綺麗になったから」
「……綺麗?」
 思わず呟いてしまったのも無理なからぬことだろう。鋼の錬金術師の性別は男だ。普通、男に綺麗、という形容は使わない。だが、はっきりと『すごく綺麗』と聞こえたし、その言葉が示す相手は鋼の錬金術師のはずだ。
「大佐はそう思いませんか?」
 聞かれても困る。鋼の錬金術師が女だったならば同意したかもしれないが、男に対してそんな風に思ったことは一度もなく、困惑するしかなかった。
 第一、男の顔を美醜を考えて凝視したことなど一度もない。
「こちらに来るたびに綺麗になってるって、みんな言ってますよ」
「それは知らなかったな」
 みんな、というのは一体誰のことだろう。少なくとも、腹心の部下達がそう言っているのを聞いた覚えはない。リザ以外は男だから、自分と同じく男の顔を凝視していない可能性が高い。性別によって多少観点が違うのは当然だった。
「きっと大佐は綺麗な方がいつも側にいらっしゃるからお気づきにならないんですね」
「そうかもしれないね。現に、こうして目の前にこんなにも魅力的な女性がいるしね」
「やだ、大佐ったら。お上手なんですから」
 ぱっと顔を赤らめるあたりが、実にかわいらしい。そしてこういうかわいらしさに、鋼の錬金術師は縁遠かった。自分が何を言っても大抵怒鳴り返すか、呆れたように疲れた声で返すか、または沈黙するか、そっぽを向いて無視をするか。
 自分にとって、鋼の錬金術師――エドワード・エルリックはそんな子どもだった。そんな子どもが、恋をしている、という。それが事実かはともかくとして、そんな噂でもちきりだということを、初めて知った。
(鋼のが、恋とは)
 予想もしたことがなかった。なにしろ、生意気な少年、というイメージがとにかく自分の中で強い。
 更に言うなら、彼は恋よりも常に追い求めている存在があったし、弟を溺愛している事実も知っている。
 だから余計に、自分の中で彼が恋している、と聞いたところで不可思議な気分になってしまうのだろう。
「でも、大佐だったら何かご存じかと思っていたんですけど、エドワード君は口が堅いんですね」
 エドワード君、と気軽に呼ぶ程度には彼を知っているらしい。もっとも、彼は東方司令部にはそれなりに顔を出すし、彼女は窓口で対応しているのだから当然かもしれない。エドワードは自分に対しては態度が悪いが、逆に言えば自分以外の相手に対しては笑顔も見せるし、つまり愛想は悪くなかった。
 自分にだけ愛想が悪い、と思うと少しばかり面白くないが、なにしろ初対面時に怒鳴りつけたのはロイだ。それに笑顔を全く見せない、というわけでもないしこれはこれで良しと思うべきだろう。
「どんな子なのかってみんなで話てるんですけど、きっと私たちが聞いても答えてくれないですよね」
「そんなに彼の意中の相手が気になるのかね?」
「そりゃ、気になりますよ。だってエドワード君はすごく優秀な錬金術師なんでしょう?」
 それは確かに真実で、だから頷いた。
「そうだね」
 確かに、彼は優秀だ。だからこそ、彼は手足を失った。……だからこそ、それでも尚、彼は生きている。
「そんな子が、どんな女の子に恋したのか、やっぱり気になりますよ。きっと可愛らしい子なんでしょうね」
「そうだね。例えば、君みたいに」
 微笑んで告げると、やはり顔を赤らめる。
「もう、大佐ってばいつもそんなことばっかり言うんですからぁ」
「事実だから、つい言わずにはいられなくなってね」
「もう。本気にしちゃったらどうするんですかぁ。それより、エドワード君に相手はどんな子なのか、是非聞いてくださいませんか?」
 お願いします、と切実な声音で言われて更に困惑する。自分が聞いても、彼が答えるとは思えない。曖昧に微笑んで誤魔化した。
 その後話題は別の世間話に変わったが、心の片隅にそれは小さな凝りを作った。
(鋼のが恋をしている、か)
 それはおそらくは歓迎するべき事態なのだろう。彼はいつでも前を見ている。前しか見ていない。けれど、あの年齢の子どもならばきっと寄り道も必要なはずだった。
 彼はいつでも真っ直ぐで、真っ直ぐすぎて見ていて危ういと思うときがある。ならば、それはやはり歓迎する事態のはずだった。
 けれど、何故だろう。どこか面白くない、と思ってしまうのは。
 彼の年齢を考えれば、恋愛をするのはむしろ当然だ。彼の弟であるアルフォンスが恋人が欲しい、という願望を部下達に告げているのを聞いたこともある。
 そしてその時は素直に、微笑ましいと思ったものだった。
 やがて適当なところで会話を終わらせ、仕事に戻るべく歩き出す。そもそも、彼女がエドワードのことを口にしたのは今朝、東方司令部にやってきたことが発端だった。ただし、今現在自分は彼の、というか彼ら兄弟の姿を見ていない。
 窓口やってきて、後で改めてくるから、と告げたとのことだった。ならば、昼も過ぎたしそろそろ顔を見せる頃だろう。あるいは、彼ら図書館が閉館した後にやって来るかも知れない。弟の意見が優先されれば前者、兄の意見が優先されれば後者というところだろうか。
 どちらにしろ、なるべく己の仕事を片付けておいた方が得策だ。鋼の錬金術師はまず間違いなく、自分宛の書類を山ほど抱えているはずだから。
(また、文句を言うのだろうな)
 そう思い、苦笑を浮かべる。彼はいつも自分に文句ばかり言う。けれど、それはいつものことだったし、自分にだけ言うと思えば可愛いと言えなくもない。
そして自分以外には愛想が良いせいか、窓口の女性達にも彼は大層人気者の様子だ。無論、性格の良い弟も。だから余計に、彼女たちはエドワードの意中の相手とやらが気になるのかも知れない。
 ――――どんな子なのか、是非、聞いてくださいませんか?
 自分も気にならないと言えば嘘になる。
 けれど、知りたくないと思う自分もいた。彼が誰かに恋している、そんなことを本当に、ひとかけらすら、自分は想像していなかった。想像したこともなかった。
 そして不意に知った噂に対して、何故自分はこんなにも不可思議な気持ちになるのだろう。否、それは不可思議と言うよりも。
(不愉快、に近いな)
 けれどその理由が自分でもわからない。内心で首をかしげながら、それでも歩き続ける。あまり真剣に考える事柄でもないだろう。自分でも意外だが、彼が恋している、という噂はそれなり以上に衝撃的だった、というだけの話かもしれない。
 きっとそうに違いない、ととりあえず納得し、気持ちを切り替える。机上に存在する書類の束を思い出し、少しだけうんざりした気分になったが、鋼の錬金術師をからかう時間を得るためにも、それはかたづけなければならない課題だった。

◆□◆

 結局、またはやはりと言うべきか、鋼の錬金術師とその弟が姿を見せたのは日が暮れた頃のことだった。
 悪びれた様子もなくやってきて、扉を開けるなり『大佐いる?』と気軽に告げる。いつものことだが、騒々しく、ふてぶてしい。
 けれど恋した相手とはやはり態度が違うのだろうな、などと頭の片隅で思った。
「私が聞いた話だと、今朝方君は姿を見せたと聞いてるんだが」
「そうだけど?」
「その割に、今はすでに日が暮れているね」
 わざとらしく窓へと視線を移すと、エドワードは頬をふくらませた。
「良いだろ、ちゃんと来たんだから」
「そういう問題じゃないと思うがね。図書館に行っていたのかな。それとも本屋かホテルかね?」
 尋ねると、答えたのはエドワードではなくアルフォンスだった。
「すごい。全部正解です」
「なるほど」
 朝に顔だけ見せて、その後は図書館へ行き、更に本屋に向かい、ホテルでチェックインをすませてようやくここへやってきた、というわけか。
「一度受付窓口へ来たのなら、そのままここまで来れば良いだろうに」
「そんな気分じゃなかったんだよ。良いだろ、別に」
 それは一体どんな気分なんだ、と思いつつ口には出さない。出したところで、この子どもは自分にそっぽを向き続けるだけだろう。それはもう経験上わかっていることだった。
「まったく。書類は?」
 促すと、がさごそとトランクをあさり、かなりの厚さの束を渡された。ぱらぱらとめくり、軽く息を吐く。言えばきっとくってかかるのだろうな、と思いながらおもむろに口を開いた。
「書き直しだ。もう少し丁寧に書いてくれたまえ」
「なんでだよ! いつもはそれで通ってるじゃねぇか!」
 予想通りすぎる反応に、思わず笑みが浮かんだ。
「いつもは、ね。だが今回はそうもいかないんだ。君の成果を見てみたい、とね。上層部の人間が言ってきているんだよ」
「あぁ? なんだよそれ」
「どれだけ君が優秀なのか、書類を読んで判断したいのだそうだよ。まぁ、読んで理解できるかどうかは私も知らないがね」
 何しろ、その土地の治安などに関するレポートならともかく、今回受け取ったのは錬金術関連だ。通常の人間ではまずわかるまい。
 だが、それでも見たい、と言うのならば見せるのが勤めというものだ。重要なのは彼らが理解できるできない、ではなく、あくまでも相手の要望に対して従順である、という態度を見せることだった。少なくとも、当面は。
「そんなわけで、君のいつも通りの文字では読むのに根気か慣れが必要になる。だが、まさか上層部の人間にそれを求めるわけにもいかないだろう?」
「……」
 エドワードは沈黙した。アルフォンスも沈黙を守った。そして周囲にいるロイの部下達もだ。全員、エドワードの文字を良く知っていた。読めないわけではないし、その気になれば読みやすい字も書けるが、レポートは気が急くのか、そもそも時間がないのか、文字が荒い。早い話、大層読みにくかった。
「そんなに嫌そうな顔をするものでもないよ。誰もが読める文字を書くことも大切だ」
「そりゃそうかもしれねぇけど、こんだけの量だぜ?」
 確かに、エドワードが嫌がるのも良くわかる。もしもロイがエドワードの立場だったならば、やはり嫌がっただろう。当たり前だ。誰が清書などと、そんな面倒なことをやりたいものだろうか。
「提出しない、という選択肢もないことはないが、そうすると今後の旅が面倒になると思うがね。なにしろ暇と権力を持てあましている相手だ」
「あぁもう、わかったよっ!」
 いかにも渋々、という様相でエドワードは書類を書き直すことを了承する。
「それは良かった。できるだけ早急に、と言われているが、どれくらいでできあがりそうかな」
 にこにことを笑顔で尋ねると、彼は苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべている。
「……三日、できれば五日」
「三日だね。そう伝えておこう」
 後半の言葉は聞こえないふりをして、再度微笑みかけると、エドワードはふくれたまま書類に視線を落とした。
 最初から彼が丁寧な文字で書けばすることのなかった苦労だが、こればかりは仕方ない。ロイとしても、理解できないことはわかりきっている連中がエドワードの書いたレポートを読みたがるとは思ってもみなかった。そうとわかっていれば、事前に今回だけでも丁寧に書くようにと、あらかじめ伝えていたのだが。
 それこそ、彼の文字に慣れた身としては、多少乱れた文字でもそれを咎めたことがなかったが、今回はそれが仇となったようだ。
「じゃぁ、ボクは列車のチケットキャンセルしてくるね。がんばって、兄さん」
 おそらく心の底から激励の言葉を紡ぐと、がしゃんがしゃん、と音を立てながらアルフォンスが去っていった。相変わらず気のきいた弟だ。
「ホテルで書くかね?」
「移動するのも面倒だからここで良い。空いてる机ってあるか?」
「勿論。好きに使うと良い」
 この部屋だけでも机はいくつか空いているし、全く使われていない部屋もあるほどだ。無駄に広くて立派な建物にしたのは良いが、残念ながらそこまで軍人の数は多くなかった。
「んじゃ、適当に借りるな」
「希望するなら個室も用意できるが?」
「別にここで良いぜ。どこでしても書類の手直しなんて一緒だろ」 
 書類の束を抱え、空いてる机を見つけると遠慮なく腰を下ろす。すると部下達があれこれと物置同然だった机を彼のために整理し始めた。仕事を少しでもサボタージュしたいのか、それとも彼を構いたいのか、単純な親切心なのか。非常に微妙なところだ。
 やがて一通り机上の整理が終わると、嫌々ながらもレポートを清書し始める。最初はその様をなんとなく見守っていた部下達も飽きたのかそれぞれの仕事に戻った。
 自分も仕事を片付けつつ、ちらちらとエドワードの様子をうかがったが、彼はいつでも同じだった。滑らかにペンを走らせたかと思うと、自分のレポートを何度か繰り返し熟読し、少し考え込んでからまたペンを走らせる。そのまま写した方が楽だろうに、わざわざ書き直し、書き足しまでしている様子だ。しかも、周囲の人間が何を言おうが、どんな行動を取ろうが一切聞こえていないらしい。リザが彼に茶を運んだが、その事実すら気づいていない様子だ。生返事だけは寄越していたが、おそらく無意識に違いない。
(知ってはいたが、たいした集中力だな)
 そう思わずにはいられない。資料室を開放してやると、微動だにせず読書にいそしむ姿を何度か見てはいたが、書類に対してもその気になれば相当集中できるらしい。
 もっとも、それは自分の興味のある事柄ならば、という注釈は必要だろうが。
「すごいですねぇ」
 感心した様子でケインが言うと、皆それぞれ頷いている。
「あんな真剣な表情の大将、俺初めて見た」
「俺もだな」
「皆そうでしょう。実際、初めてですから」
 一応ひそひそと話しているが、やはりエドワードは気にした様子もなく、完全に自分の世界に入り込んでいる。何かを呟いているのか、ときどき口元が微かに動いたが声が漏れることはなかった。
 列車の切符をキャンセルをすませてきたアルフォンスによれば、それは本当にいつものことであるらしい。集中すればしたで眠りを忘れたり、食事を忘れることは珍しくなく、反対にあまり興味の持てない事柄だと数時間文句を言い続け、あまりにも進まないレポートにため息ばかりついている、とのことだった。
 やがてそれは皆が帰宅時間になると、それまで図書館で借りてきたという本を読んだり、自分や部下との談笑につきあっていたりしていたアルフォンスが人手が必要、と言う理由で呼ばれた。なんでも結婚を機に寮を出る者がいるが、引っ越しするにあたりアルフォンスの力を借りたい、ということらしい。性格の良い鎧姿の少年は二つ返事で快諾し、聞こえないことを承知で『行ってくるね、兄さん』と告げて手伝いへと向かっていった。
 本人は手伝いが終わり次第、夜中でも兄の元へと戻るつもりだろうが、手伝いの中にはジャン達も含まれているし、まず明日の朝まで彼が戻ってくることはないだろう。引っ越しが終わったら終わったで宴会が始まり、酒の飲めないアルフォンスも話につきあえ、と言われるのは目に見えている。
 本来は酒の席に呼ぶには幼い少年だが、どうしても鎧姿のせいか、はたまた彼が落ち着きすぎているからか、その事実は忘れられやすい。
 そしてエドワードは、と言えば、弟が自分の側にいないという事実も知らずに同じ動作を繰り返している。気がつけば、仕事の合間合間に彼の様子を確かめている自分がいた。
 周囲はしん、と静まりかえっている。部下達は帰宅し、いるのは自分とエドワードだけだった。ただし、エドワードはロイの存在も忘れているに違いない。ひたすらにレポートだけに集中している。
 そんな彼を見ていると、いつもはとうに放り出している仕事を少しは進めるか、という気になるから不思議だ。もっとも、それはエドワードだけをこの部屋に残して帰宅するわけにもいかないから、というのが一番の理由ではあったけれど。
 ともかく、そんなわけでしばらくの間、ロイも仕事に勤しむこととなった。
 静寂に包まれたその時間は、妙に心地良さを伴っている。
 自分でも意外なほど仕事がはかどったことを知るのは、それから少し後のことだった。



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