偽りの月<中>
先程の場所へ戻って見ると、すでに一馬も戻ってきていた。
当然、一馬と結人が話している。
しかし、その雰囲気はやはりいつも通りで、世間話をしてい
る友人同士の会話をしていた、としか見えない。
(ま、そうだろうけどね)
話していた方が良い、と分かり切っていても、なかなか切り
出せないのはやはり無理のない話なのだろう。話の内容自体、
ここでは他人に聞かれる可能性も高い。色恋沙汰なのだから、
場所を選びたいのも分かる。
「悪いね、一馬」
あえて結人には謝罪せず、一馬に向かってのみそう言うと、
一馬は不思議にも思わず、別に良いよ、と言った。
「たいした時間待ってない」
「…そう? なら良いけど」
言いながら、一瞬だけ視線を結人に向ける。彼は、と言えば、
悪びれもせず笑っている。それでも憎まれないのは、彼の性分
としか言いようがない。
「じゃ、帰ろうか」
促すと、一馬が頷く。結人はその場で別れるかと思ったが、
とりあえず出口までは一緒に歩いてきた。そうして、建物を一
歩出たところで口を開く。
「悪い。俺、こっちだから」
言って指さす方向はいつもとは反対の道だ。実際は将の元へ
行くわけだから、敷地内に戻るわけだが。
「じゃぁね、結人」
「じゃーなー」
一馬が素直な気質であったことが結人を救い、そのまま結人
と別れる。しばらく見送るように結人は立っているだろう事が、
振り返らなくてもわかった。
……彼も、後ろめたいには違いない。
それは当然のことだ。けれど、それでも手放せるはずがない。
それが恋というものだろう。
以前は、自分たちの間に嘘が存在することになるなんて夢に
も思わなかった。それくらい、本当にお互いが大事だった。
…今だって、大事だ。
英士にとって、やはり結人も一馬の大事な親友だ。その事実
は変わっていない。
けれど、今まで通りでは、やはりいられない。
それは、どうしようもないことだ。どんなに願っても、過去には
帰れない。
「一馬?」
ふと、いつもの帰り道ならすぐに脇道に入るのに、今回はグ
ランドに沿って行こうとする一馬を不思議に思って名を呼んだ。
「こっちだと、確か自販機あっただろ」
言われて納得した。どうやら、自分の飲み終わった缶の処理
まで気を使ってくれたらしい。自販機と共に、そこには缶捨場も
用意されていた記憶が確かにある。
妙な所で良く気が付くのが、彼らしいと言えば彼らしい。小
さく口元に笑みを浮かべながら、その道へと歩を進めた。
……何も、考えずに。
そうして。
後悔は、すぐにやってきた。
一馬と適当に会話をしている間に、一応の目的地である缶捨
場が目前に見えた。
けれど、それを眼で確認する前に、英士はようやくその道を
来るべきではなかったことを知った。
グランドに沿うように、その道は存在する。だから、グランドが
見えるのは当然のことだ。
…そう、当然の。
それなのに、自分は気が付かなかった。
注意力が散漫していたとしか言いようがない。
否、注意力だけではない。分かっていたはずなのに、自分は
今かなりショックを受けている。どうして良いのか分からないく
らいに。
「英士? どうかしたか?」
動きが鈍くなった自分を不思議に思いつつも、親切心で一馬
が己の手の中にある缶を彼の手に移した。そのまま、彼はそれ
をただ、捨てる気だったに違いない。
……けれど。
一馬の動きが、そこで止まった。
どうして止まったのか、英士には分かっていた。彼にも、見えた
のだろう。
グランドが見えるだけなら、無論問題などあるはずがない。
けれど、見えるのはグランドを散歩していたのか、ともかく、
そこにいる結人と将の姿だった。
せめて、ただ二人が歩いているだけなら、まだ救いはあった
だろう。もっと自分はずっと平常心を保っていられた自信もあ
るし、一馬にだって苦しいながらに適当に言い逃れをしてやれ
ただろう。
けれど、現実は最悪の形だった。タイミングが悪かった、と
しか言いようがない。
ぐしゃり、と缶の潰れる音が英士の耳を掠めた。
見れば、一馬の手元にある缶が、予想通り潰れている。その
音で、かろうじて英士は自分を取り戻したのは、良かったのか
悪かったのか。
「…一馬」
名を呼んでも、友人は返事をしない。ただ、呆然とグランドを、
……彼らを見ている。
それは、十分に遠目だった。遠目だったけれど、それでも自
分たちにははっきりとその姿が認められる。
それは、ありふれた言葉で言えば、恋人同士の、当たり前
のラブシーン、ということになるのだろう。自分が見た時は、軽
くじゃれあっているように見えた。それから、結人が将を抱きし
めて。
そして。
……そこから先は、英士は見ていない。けれど、まさしくそ
の瞬間を、一馬は見てしまったのだろう。
あの二人の、…キスシーンを。
「…んだよ…」
呆然とした、一馬の小さな声が聞こえた。それは、どれくら
いの時間が経過してからの声だっただろう。それだけの時間
を、理解するには必要とした。
一馬にしてみれば、その時間を要するのは当然の事だった
だろう。自分だって、やはりまだ冷静にはなりきれない。
わかっている。当たり前の事なのだ。あの二人は恋人同士
なのだから。
この時間に、グランドなど人がいるはずもない。自分たちが
いつもと違う道で帰ろうとするなど、結人は夢にも思わなかっ
ただろう。ただひたすら、運が、タイミングが悪かった。それだ
けの話。それだけの、真実。あまりにも最悪な。
再び視線を結人達に送ると、将が笑ったような気がした。
「……」
目をそらし、それから固まってしまったかのような一馬の腕
を取り、強引に歩き出す。
反発する気力もないのか、一馬の反抗はなかった。
「…何だよ、今の」
「……」
おそらく、先程の呟きと同じ事を繰り返して言ったのだろう。
答える気にはなれずに沈黙を通した。
「何、でっ…」
けれど、一馬のいかにもやりきれない、という様子の声に仕
方なく口を開く。
「見たままが事実だよ。…だから、多分一馬の考えてるとおり
だね」
その声は我ながらひどく素っ気ない、冷たいものになった。
他の人間ならばともかく、結人や一馬に対してそんな口調にな
ることは非常に希であるのに。
「英士、…もしかして、知ってたのか?」
「……」
一馬の問いに、やはり沈黙で返す。けれど、それは明らかす
ぎる肯定だった。
「……結人は、あいつに騙されてんだ」
独り言のように、一馬は言う。
「一馬」
名を呼ぶと、彼は紅潮した顔で叫んだ。
「だって、そうだろ! 普通じゃないっ!」
(…普通、ね)
確かに、普通ではない。男と男がキスしていた、なんて。
それも、男の片割れが親友では尚更。
けれど、それでは何が真実、『普通』なのだろうか。その明
確な境界線を、きっと一馬は知らないだろう。
…無論、自分だって知らない。今となっては知ろうとも思
えない。
「分かってるはずだよ、一馬」
本当は、言わない方が良いのかもしれない。彼には辛い事実
だから。そう思いながらも、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「騙されるほど、結人は馬鹿じゃないし、…騙せるほど、風祭は
器用じゃない」
「じゃぁ、何でっ…」
「それは多分、あの二人にも理由は分からないだろうね」
どうして、互いが互いに惹かれたのか。その理由など、分か
るはずがない。
「ただ、あれが現実なのは確かだと思うけど」
「…っ、何で英士、そんなに冷静なんだよっ」
「性分だからね」
思うままに反応できる一馬を羨ましいと思うのは、こんな時
だ。素直すぎる彼に比べれば、自分は損な性分に違いない。
きっと。
「俺は認めない。あんなの、絶対……っ」
その台詞は、誰よりも本人が無意味だと知っているに違いない。
それでも、言わずにはいられなかったのだろう。
「…一馬」
だから、ただ彼の名を呼ぶことしかできなかった。
「………悪い」
返事の代わりに、彼は小さく謝罪する。
「…先、帰る」
彼が冷静になりきれないのは当然のことだ。だから、その台詞
にも黙って頷いた。
本来なら引き留めるべきだったのかもしれないが、一馬も一人
になりたい気分に違いなかったし、何よりも、―――自分が、一
人になりたかった。 振り返ることなく走り去る一馬を見送りなが
ら、そっと息を吐く。
―――いつかは、知ったに違いない現実だ。
そう、確かに思うけれど、それが今日、このタイミングでなれば
良かったのにと思う。今更、どうしようもないことではあるのだが。
視線をグランドに送ったが、すでに二人の姿はなかった。その
事実に、心底ほっとする。
二人が悪い訳じゃない。それも、わかってる。自分も、きっと
一馬も。
誰かが、悪いわけではないのだ。
……だからなのだろうか。こんなにも、やるせない。
それは仕方のないことだけれど。
もう一度息を吐き、それから歩き出す。もう、一馬の姿も見え
なかった。
ぱしゃん。
注意力散漫になっていたのだろう。つま先が水たまりに触れ、
水音がした。
幸い、靴底以外は濡れずにすんだが、そんな自分に苦笑する。
(本当に、ショックだったんだな。我ながら)
一馬に対して、もっとフォローもできると思っていた。それはなん
という思い上がりだったのだろう。今の自分は、自分一人すら落ち
着かせることができない。
ふと、水たまりの水面を見ると、そこに移った三日月が、ゆらゆら
と揺れていた。
やがて、何事もなかったように歪んだ月は、丸いそれへと戻って
いく。
(…こんな風に)
―――歪んだ、水面に映った月が元に戻るように。
何事も無かったように、日常に戻れたら。
けれど、それはすでに感傷でしかない。
ぱしゃん。
もう一度、故意に水面を歪ませ、その自分らしくない、子供っ
ぽい行為に小さく笑う。
その笑いはひどく切ないと。そう思いながら。