いつか は つ だろう



 喉に渇きを覚えて、眼が覚めた。胸元が重い。何故だろう、と思ったが、僅かに身じろいで納得する。エドワードが自分に覆い被さるようにして眠っていた。
 アルフォンスが側にいて欲しいと望んだから、彼はずっとこうして自分の側にいてくれたのだろう。
 彼も毎日遅くまで調べ物をしたり、何かを書きつづっている様子だったから、日々睡眠不足に違いない。だからつい、うとうとと眠り込んでしまっても不思議ではなかった。
 自分の額には濡れたタオルが載っている。すでに体温に馴染み、温くなっているが最初は冷たかったのだろう。かつて、母が生きていたときには良くこうして額を冷やしてくれたことを思い出す。同じようにエドワードがしてくれたと思うと、なんだかくすぐったいような気分になった。
 どうやらいつの間にか自分は熱を出していたらしい。残り寿命を聞いたせいで顔色が悪くなっているだけかと思っていたが、実際に風邪か何かを患っていたのかもしれない。
 そういえば、最近は微熱が続くことも多かった。割といつでも体調不良だからあまり気にしたことはなかったが、自分は実際に余程具合が悪かったのだろう。
 けれど、今は特に怠さ等は感じない。一人暮らしをしていたままだったなら、悪化の一途を辿ったに違いないから、強引に自分を休ませたエドワードに感謝しなくてはならない。
「エドワードさん」
 声をかけたが、余程深い眠りなのか、彼が起きる気配はなかった。月明かりの下で見る彼の寝顔はどこかあどけない。睫毛が長く、それが彼を幼く見せる。
「エドワードさん、風邪ひきますよ」
 もう一度、彼を呼ぶ。
 起こすのは少し可哀想だとも思ったが、風邪をひくよりは良いだろう。そもそも、自分の体調が悪く、そして我が儘を言ったから彼はここにいるのだ。彼が風邪をひいた場合、間違いなく責任はアルフォンスにあった。
 エドワードさん、ともう一度呼ぼうとした、その瞬間。
「――アル……」
 小さな声で、彼はアルフォンスの名を呟いた。
 目を見開いたが、すぐにそれは自分を呼んだわけではない、という事実に気がついた。
 当たり前だ。彼は自分をハイデリヒ、と呼ぶ。アルフォンスと呼ばれたことはなかった。
 何度か名前を呼んで欲しい、と告げてみたが、エドワードが頷いてくれたことは一度もない。彼にとって、『アルフォンス』はどこまでも、彼の弟の名なのだろう。
 そうして彼は弟を。最愛の存在を、愛称で『アル』と呼ぶ。どこまでも愛おしそうに。
「エドワード、さん」
 どうして、そんな事実がこんなにも切ない、と思ってしまうのか。二人だけの兄弟だと聞いている。
 父親は長い間不在で、母が早世し、残された弟と二人で生きてきたのだと。だからこそ、より一層弟が大事なのだと。そう聞いている。
 エドワードの立場ならそれは当然なのだろうと理解しているのに、それでも苛立って仕方のない時がある。彼が大事なのは弟。弟だけ。自分はその身代わりでしかない。そう思う度に、自分を見て欲しいと、何度言いそうになったことだろう。
「アル」
 また、エドワードが言った。まぎれもない寝言。その響きは、どこまでも甘く聞こえた。
 彼の呼ぶ、自分ではない、自分の名前。
 こうして改めてみると、本当に彼の顔立ちは幼い。普段は大人びた表情を浮かべているから気付かないけれど。
 元々、身長のせいかあまり年上には見えない彼だが、こうして眠っているとますます見えない。
「エドワードさん」
 更にもう一度、彼の名を呼んだ。兄さんと、そう呼んだら彼はどう反応するのだろうとふと思った。
「……兄、さん」
 試しに深い意味もなく読んでみると、途端に彼が幸福そうにその寝顔に笑みを刻んだ。
「……アル」
「……っ」
 瞬間、心の底から後悔した。
 その、安らかで、幸福そうな表情。自分が自分である限り与えられない、その表情。けれど、この世界には存在しないという彼の弟ならば、こんなにも容易に、彼を心の底から嬉しそうに微笑ませることができる。
 今の彼は、いつだってどこか影のある笑顔を浮かべるけれど、きっと弟には曇りなど欠片もない、そんな笑顔を見せるのだろう。
 夢の世界で、エドワードは弟に逢っているのかもしれない。自分に似た、けれど自分ではない存在と。
 そうして、彼は彼の望む世界、彼の望む幸福を生きているのかも、しれない。
(わかってる)
 彼はこの世界で生きることを望んではいない。どんなに、アルフォンスが望んだとしても、それは叶えられない。
(わかってる)
 どんなに必死で足掻いても、自分はもう一人の――彼の弟の『アルフォンス』には適わない。
 それがひどく悔しい。切ない。けれど、それはどうにもならない事だとも知っている。
 彼に出逢わなければ、こんな感情は知らずにすんだだろう。けれど、知らなければ良かった、とは思えない。彼に出逢えた、その事実を思えば、この感情すら、生きている証のように思えてくる。こんなにも醜く、痛い感情ですらも。
 それらは全て、彼が自分に与えた。
 それがどんなにマイナスの感情だとしても、彼を知らなかった頃に戻りたいとは思わない。
不思議なほど、自分は彼に惹き付けられている。どうしてなのかはわからない。
 彼のささやかな仕草すら、気になって仕方ないほど彼のことばかり見つめてしまう。
 いつだって、彼が側にいる幸福を思わずにはいられないほどに。
 他の誰もいらない。ただ、彼が側にいてくれれば、自分はいつでも、いつまでも幸福を実感するだろう。
 ふと、エドワードと同居をするときに、いつかアルフォンスが恋人を欲しいと思うかもしれない、と彼が言ったことを思い出した。けれど、そんなことを思ったことは一度もない。恋人など必要なかった。彼さえ側にいてくれるのなら。
(それじゃまるで、ぼくがエドワードさんに恋をしているみたいだ)
 そう思い、苦笑を浮かべようとして、けれど失敗した。もう一度、繰り返し思う。まるで、彼に自分は恋しているようだ、と。
(まさか)
 自分の彼への執着は、少し、否、かなり異常なほどだろう。それくらいの自覚はある。それは明らかに普通ではなかった。
 こんな風に他の人間だけを見つめた経験など他にない。
 信頼できる仲間もいる。優しく、親切なグレイシアがいる。陽気で楽しい町の人々も。けれど、どの存在もエドワードとはあまりにも違っていた。
 自分の中で、あまりにも。あまりにも、エドワードだけがひたすらに特別なのだ。それは理屈ではなかった。
 今まで、その感情について深く考えたことはなかった。彼は男だ。それは間違いない。そして今までアルフォンスは同性に興味を持ったことなどなかった。……ただし、異性にもなかったが。
 ひたすらに研究が楽しかった。夢中だった。
 だが、思い出してみればエドワードに出逢ったことによって、それは少し形を変えたように思う。彼の存在はあまりにもアルフォンスにとって、新鮮だった。豊富な知識と、鋭い視点。そのくせ、どこか不器用で危なげなところもある、そんな不安定な存在。
 そうして気がつけば、自分の心の深いところに彼は存在していた。その感情を、恋ではないとどうして言えるだろうか。
(……まさか)
 もしこの感情が恋ならば、自分は彼をどうしたいと言うのだろう。キスしたいと思うのだろうか。抱きしめたいと。それから、もっと深い関係にさえなりたいと、そう思うのか。
(……っ)
 息を詰め、口を覆った。
 その想像はあまりにも容易だった。答えは一つで、その答えが出るのに時間はほとんど必要なかった。
「参ったな」
 呆然と呟いた。参った。困った。どうすれば良いというのだろう。考えれば考えるほど、その答えは揺るぎのないものになっていく。
 この感情は間違いなく、恋だ。自分は彼に恋している。
 その事実を少しばかり持て余しながら視線をエドワードに向けると、彼は相変わらず良く眠っていた。顔には微笑を未だに称えている。
 その表情を見てしまえば、愛しさばかりが募った。
(やっぱり間違いない、か)
 苦笑するしかなかった。残念ながら、勘違い、などということもないだろう。自分は本当に。確かに、彼に恋している。
 だが、それは当然の成り行きだったようにも思う。初めて彼に逢ったときから何かが確かに違っていた。今思えば、あの瞬間、すでに自分は恋に落ちていたのかもしれない。
 ただ、それが恋だと今になって実感した。今になって、ようやくわかった。それだけの話だ。
 このひとという存在を知ってしまった以上、自分が彼に恋するのはきっと当たり前のことだ。真っ直ぐな、そして寂しい琥珀色のその瞳。高潔で、そしてどこまでも綺麗なひと。優しくて、強くて、そして弱い、そんな不安定さすら魅力だと言える。
 そんな存在に、どうして惹かれずにいられるだろう。
 ひたすらに納得した。そうか、自分は彼に恋していたのかと。ただひたすらに、そう思った。それ以上の感慨は生まれず、喜びも絶望もなかった。現実を認識し、少しだけ困ったな、と思う。
 自分には時間がないのに。恋をするのに時間は確かに必要ないらしい。
 彼への恋情を自覚してしまえば、ますます死が恐ろしくなる。死ねば、彼には逢えない。笑顔を見ることも。話すことも。何一つ、できない。
 死とは虚無だ。何も生まれない。
 ただ、自分という存在が無に還る。自分が彼に恋をしたという、そんなささやかな、そして確かな事実さえも全て無になる。
 だからこそ、自分は死を恐れるのだろう。
 どうしようもないことだと知っているというのに、死にたくはないと、彼にもう二度と逢えなくなるのは嫌だと、そう思わずにいられないほどに。
 愚かだと、自分でも思う。死からは誰も逃れられない。それは確実に、自分の背後に迫ってきている。どんなに恐ろしく、逃げたくてもどうにもならない。
 その恐怖を誤魔化すように、軽く頭を振った。少なくとも、今はその恐怖に怯えているときではなかった。
 怯えるのは一人の時で良い。決して、自分の命が長くないことを彼に悟られてはならないのだから。
「起きてください、エドワードさん」
 そっとエドワードの方を揺すった。振動させるとさすがに深い眠りも覚めたらしい。ゆっくりと彼が瞼を持ち上げる。 
「……ハイ、デリヒ?」
 奇妙なところで言葉が一瞬切れたのは、寝ぼけているためだろう。
 自分を見ながらエドワードは眠そうに目元を擦り、あくびをする。
「こんなところで眠ったら風邪ひきます。もうぼくは大丈夫ですから、部屋に戻ってください」
 アルフォンスの台詞で現状を思い出したらしい。途端、ぱちりと目を開き、じっと確認するようにアルフォンスを見た。
「本当に、大丈夫なのか?」
「エドワードさんのおかげで、熱は下がったみたいです」
 アルフォンスの台詞を信じていないのか、エドワードは手をのばし、アルフォンスの額に左手を置いた。神妙な顔をしていたが、やがてそれは柔らかな微笑に変わる。
「良かった。そうだ、何か欲しいもんあるか?」
「……欲しいもの、ですか?」
 一体いきなり何を言うのだろう。
(欲しい、もの?)
 それは例えば、健康な身体とか。彼との同居が、この生活が永遠に続くという保証だとか。数えればきりがない。
 けれど咄嗟に思い浮かんだのは、先ほどと同じ返答。
 『エドワード・エルリック』という存在そのものだった。
 彼が、自分は欲しい。
 とても――――――とても、欲しい。
「シチューを温め直した方が良いか、それとももらった林檎のケーキを食うか、あとは生の林檎もあるから皮を剥いてやった方が良いか?」
 たたみかけるように問われ、『欲しいもの』とは『食べたいもの』の意味であるらしいことを知った。どうやら自分はまだ完全に眠りの世界から覚醒できてはいなかったらしい。欲しいもの、と言われ、咄嗟にあなたが欲しい、と言いそうになった自分がおかしかった。
「ええと、水が飲みたい、かな」
 喉が渇いていたことを思い出し、そう告げるとわかった、と言ってエドワードが立ち上がる。すると、無意識のうちに彼の夜着の裾を掴む自分がいた。
「ハイデリヒ?」
「……いえ、なんでもないです。すみません」
 慌てて手を離すと、変な奴、とエドワードが笑った。確かに、今の自分は変だ。とても変だ。
 エドワードは水をアルフォンスのために持ってこようとしているだけなのに、そのささやかな時間すら、自分は彼の不在に耐えられないらしい。
 いつの間に、彼の存在はそんなにも大きくなってしまった。自分という存在を塗り替えるほど。
 そんな存在である彼に、自分は何ができるだろう。もうすぐ尽きる命で。先の短い、この命で。彼に何ができるだろう。
「水、持ってきたぞ」
 考え込んでいると、エドワードが戻ってきた。
 水を渡され、礼を言ってグラスを受け取る。最初に一口嚥下し、美味いと思った。そして自分は今生きているのだ、という単純な真実を痛感する。
 今、自分は生きている。先が短くても。それでも、自分は今を生きている。彼と共に。世の中には大勢の人間がいて、きっと出逢う確立はとても低いはずだ。それでも、自分たちは出逢い、こうして同じ時間を共有している。
「もう一杯飲むか?」
 尋ねられたが、いいえ、と答えた。とりあえず喉の渇きは癒えている。
「もう、本当に大丈夫ですから。だから、エドワードさんも部屋に戻って休んでください。ここじゃ熟睡できなかったはずです」
「オレは丈夫がとりえだし、ここでも熟睡できるから心配すんなよ。今日はずっと、側にいてやるから」
 彼の表情は穏やかで優しい。大人びた表情。また、自分を弟に見立てているのだろう。だから彼は自分の心配をしている。自分が側にいて欲しいと願ったくせに、身代わりにされるのは嫌だった。我が儘の自覚はある。
「本当に、平気ですから」
「オレがハイデリヒの側にいたい、って言っても駄目なのか?」
 じっと見つめた上で言うのはそんな台詞だ。暗い部屋でも、彼の瞳はやはり美しかった。どこまでも澄んでいる。
 けれど、その瞳の先にいるのは、自分ではなく彼の弟だ。
 自分ではないアルフォンス。そう思うと、どうしようもなくやるせなかった。
「……ぼくはあなたの弟じゃないですから、心配はご無用です」
「なんだよ、それ」
 むっとした様子で唇を尖らせる。気色ばんだその表情ですら、魅力的だと思う自分はどこまでもおかしい。あまりにも素直な彼に、半ば見とれた。
「オレは別に、ハイデリヒがアルに似てるから心配してるわけじゃない。誰だって大事な人間の調子が悪けりゃ心配して当然だろ!」
 今までにないほど、強い口調。アルフォンスの言葉に、明らかに彼は傷ついていた。
 そして今、彼は言った。自分のことを、大事な人間なのだ、と。だから調子が悪ければ心配するのは当然なのだと。「それとも、オレはハイデリヒの心配をする資格すらないって言うのか。オレはそんなに、お前にとって迷惑なだけの存在なのか?」
 思いがけない言葉の数々に、呆然と彼を見つめた。
(迷惑?)
 誰を、誰が迷惑に思うというのか。彼を、自分が?
 そんなことあるはずがない。彼との同居を望んだのは自分だし、彼に恋したのも自分だ。迷惑などと思ったことは一度もなかった。それは神に誓っても良い。
「心配くらい、させてくれたって良いだろ。確かに、オレは医者じゃねぇから何もできねぇけど、最初にオレが側にいることを許したのはハイデリヒの方だろ!」
 癇癪をおこしたように言われ、更に面食らう。確かに、アルフォンスはエドワードがここにいることを望んだ。彼の言葉を借りるなら『許した』。
「確かにハイデリヒとアルは似てる。初めて逢った時も、だから驚いたし嬉しかった。それは認める」
 やっぱり、とだけ思う。それは当然だと知っているから動揺するはずもない。
「けど、オレは今、アルじゃなくてハイデリヒの心配をしてるんだ」
「……本当に?」
 彼に対して失礼であると知りながら、思わず問い返す。すると彼は当たり前だろ、と怒鳴ってきた。
「大事だから、一緒に住んでんだ。じゃなきゃ、どうして赤の他人と同居なんかすんだよ!」
 言う彼の顔は、興奮のせいなのか、それとも他の理由からなのか赤かった。その表情に嘘は見えない。今にも泣き出しそうな瞳で自分を睨んでいる。
 彼は自分を通して弟を見ていた。これは事実だ。
 けれど、弟だけを見ていたわけではなかった。そう、彼は言う。その言葉に、おかしいくらい歓喜した。
「それなら、どうかぼくのことを名前で呼んでください。ハイデリヒではなく、アルフォンスと」
「……ハイデリヒ?」
 突然、何故名を呼んで欲しいと乞うのか、と言いたげに彼は自分の名を呼んだ。いつも通り、ハイデリヒと。
「ぼくの名前はアルフォンスです。貴方の弟ではないけれど、アルフォンスなんです。ぼくが大事だと、そう言ってくれるのなら、どうか名前で呼んでくれませんか」
 ハイデリヒという苗字が嫌いなわけでは無論ない。けれど、彼にはその名で自分を呼んで欲しいと思った。弟の名前ではなく、自分の名として。
 彼に呼ばれれば、自分は確かに彼の傍らにいるのだと、いつでも実感できる。生きているのだと、そう心の底から思える。だから名を呼んで欲しかった。
 彼を見つめていると、エドワードは目を伏せた。長い睫毛の下、彼の瞳が迷いを告げている。けれど、やがて唇が動いた。
「……アル、フォンス」
 先ほどまでの威勢の良さは見事に消え失せた声音でエドワードはアルフォンスを呼ぶ。遠慮の残る響き。顔を見れば、赤いままだった。
「はい」
 彼の声に、微笑みを浮かべて返事をした。
「言っとくけどな、別に今まで名前で呼ばなかったのは、なんか妙に照れるからで、アルは何の関係ないんだからなっ!」
 赤い顔のまま、早口で彼は告げる。その表情から察するに、それは本音であるらしい。
「……ずっと名前で呼ばれたかったから、嬉しいです」
 彼が自分の名を呼んだ。それだけのことだ。深い意味などまるでない。それはわかっている。
「名前なんて、そんなんいくらでも呼んでやる。アルフォンス、アルフォンス、アルフォンスアルフォンスアルフォンスっ!」
 自棄気味に連呼されるたびに、はい、と返事を返した。弟ではなく、その名で自分を呼ばれることがそれほどまでに嬉しかった。
「そんなに呼んで欲しいなら、早く言えよ。言わなきゃわからねぇだろ……っ!」
「言い出せなかったんです。あなたにとって、『アルフォンス』は特別な名前だと知っていたから」
「アルは確かにオレにとって特別だけど、……アルフォンスだって、特別だ」
 恥じらいの表情を見せながら、それでもエドワードははっきりとそう断言した。その言葉に、どれだけ自分が驚喜するか、きっと彼は知らないだろう。一瞬、今このまま死んでも言い、とすら思った。その台詞はあまりにも甘く、陶酔感さえ呼んだ。
「……ちょっ、ハイデリヒ、……アルフォンス……!」
 歓喜のあまり、彼の身体を引き寄せ、そのまま抱きしめる。咄嗟に呼び慣れた呼び方で自分を呼び、それから思い直したようにアルフォンス、とエドワードは言い直した。妙なところで律儀なところが彼らしい。
「すみません、しばらくこうさせてください」
 抱きしめてみると、小柄だからだろう。すっぽりと自分の腕の中に収まった。
 己の腕の中にいる、誰よりも愛しい存在。大切な存在。彼もまた、自分を大事だと言ってくれた事実がこんなにも嬉しい。
(このひとに出逢えて良かった)
 心から、そう思った。本当に、このひとに出逢えて良かった。こんな感情を今まで自分は知らなかった。こんな、嵐のような感情など、存在することすら知らなかった。
 彼に出逢えたことで、より自分は今を生きているのだと知ることができる。今、自分はこの世界に存在しているのだと。そう実感することができる。
 自分は今まで。彼に出逢うまで、何も知らなかったのだと今なら言える。恋も、荒れ狂うような感情も知らなかった。――――ならば今、自分は彼のおかげで生きているのだと言えるだろう。彼の存在が、自分を生かしている。
「エドワード、さん」
 愛しい存在の名を呼ぶ。離したくない、と思った。このまま、ずっと抱きしめていられたら。
「なんだよ、ハイ……、アルフォンス」
 まだ名を呼び慣れたハイデリヒで呼ぼうとして、彼は言い直す。抱きしめられることに不満があるだろうに、暴れる様子はなく、じっとしている。
「あなたの事が好きです」 
 告白の言葉は、するりとあっけなく口から漏れた。
「オレだって、アルフォンスのことが好きだ」
 エドワードの返答は素直なだけに色気は皆無だ。彼の言葉に嘘はないのだろうが、『好き』の意味が、種類が違う。
「そうじゃないんです」
 抱きしめていた腕を解き、真正面で彼を見つめる。エドワードは不思議そうにアルフォンスを見返していた。同性に告白されるとは思っていないだろうから、鈍すぎる反応も仕方ないことなのだろう。
「アルフォ……」
 名前を呼び終わる前に、軽く彼にキスをした。触れるだけの、一瞬だけのそれ。
「――っ」
 唇が離れると、彼は顔を赤くして唇を左の掌で覆った。
「こういう意味で、あなたのことが好きなんです」
 説明するよりもわかりやすいだろうと思ってした行為だったが、効果がありすぎたようだ。目を見開き、真っ赤な顔のままエドワードは自分を見つめていた。信じられない、とでも言いたげに。その視線が痛くて、目を伏せた。
「すみません、エドワードさん」
 告白などするつもりはなかった。恋心さえ、先ほど自覚したばかりだ。けれど、気がついたら告げていた。否、気付いたら言わずにはいられなかった、と言うべきなのかもしれない。
「……あ、謝るんなら、最初からキスなんかすんなっての……っ!」
 もっともな言い分に、そうですね、と頷いた。きっとエドワードも、同性に求愛の意味でキスをされるのは初めての経験だろう。キスしたアルフォンスも無論、初めてだった。
 エドワードの顔は相変わらず赤いままだ。アルフォンスを見たかと思えば俯き、そうかと思うと天井を見上げる。思わずつられて天井を見たが、なんの変哲もない、見慣れた天井があるだけだった。
 困惑して、混乱して、どうして良いのかわからないだけらしい、と気付いたのはそれから少し後のことだ。
「参ったな。エドワードさんを困らせたい訳じゃなかったんですけど」
「参ったのはこっちだ!」
 怒鳴られ、それも確かに、と思った。同居相手の男に突然告白されてキスされれば、それは困惑するし閉口するだろう。
「嫌な思いをさせてしまってすみません」
「……だよ……っ!」
 謝罪の言葉を口にすると、彼が何かを言ってきた。
 けれど、小さくて良く聞き取れない。
「え、なんですか?」
「だから、その」
 もそもそと口を動かすが、やはりほとんど聞こえなかった。急に随分と声が小さくなったな、と思っていると、自棄気味に彼は言った。
「だからっ、……嫌じゃねーから、……嫌じゃない自分に驚いてんだよ……っ!」
「え」
 それは、つまり。期待しても良い、ということなのだろうか。それとも、単純に驚いただけで嫌悪感を抱く暇がなかった、ということなのだろうか。尋ねてみると、困惑しきった表情で逆に問い返された。
「……わかんねぇ。……アルフォンスは、どっちだと思うんだ?」
「それは、……エドワードさんがぼくに恋してくれたなら良いな、とは思いますけど」
 正直な心情を口にしてはみたものの、それは自分の希望でしかない。そしてエドワードは自分の気持ちを掴みかねている様子だ。どちらだとしても、自分の気持ちを彼自身が把握しなければ答えなど出るはずもない。
 エドワードはしばらく神妙な顔をしていたが、やがて小さく息を吐くと、身を乗り出してきた。何事か、と思う暇もなく、彼の顔が間近に迫る。ぼんやりとその様子を見つめていると、唇に柔らかな感触がぶつかってきた。
 それはまさしく、ぶつかる、と言う表現がぴったりだった。乱暴なその仕草が彼からのキスだと知り、目を丸くする。
「エドワードさん?」
「……とりあえず、やっぱり嫌じゃないみたいだ」
 彼にとって、どうやらそれは感情を確認するための実験だったらしい。正直、それはキスと言うより単に唇がぶつかっただけ、という代物だったが、とりあえず嫌悪感がなかったのなら喜ぶべきことかもしれない。
「けど、なんか異様に鼓動が早くなってんな」
 胸元を押さえながら不思議そうに言葉を紡ぐ彼に、思わず笑った。笑いながら口を開く。
「それは、ぼくもです」
 当たり前だ。告白をして、キスをして。それは鼓動が早くなるに決まっている。これがときめく、という感覚なのだろうか。それとも単純に緊張しているだけなのか。それはわからないけれど。
「そっか。アルフォンスもなのか。……んじゃ、オレはやっぱりアルフォンスに恋してんのかな」
 実験結果を確認するかのような、どこかのんびりとした口調で問われ、返答に困った。アルフォンスにしてみれば先ほどと同じく、そうならば嬉しい、としか言いようがない。
「確認のために、もう一度キスしても良いですか?」
 問うたのは、単純に彼にキスしたくなったからだ。
 もう一度彼に、――彼の唇に触れたいと思った。
 エドワードが頷く前に、彼の唇に右の人差し指で触れた。柔らかく、暖かな唇をそっと撫で、それから顔を傾けて唇を重ねる。
 彼は何の反応もなかった。ぴくりとも動かない。重ねるだけだった唇を離し、改めて彼を見つめた。
「どうですか?」
「わかんね。……わかんねぇけど、嫌じゃないことだけは、わかる」
 その言葉に、微笑みを浮かべる。その言葉だけで十分だと思った。
「嬉しいな」
 言うと、エドワードは少し惚けた表情で自分を見ている。何か変なことを言っただろうか、と心配になった。
「どうかしたんですか、エドワードさん」
「……もう一回」
「え?」
 何が、と問う前に、彼の唇が己の唇にまた重なった。相変わらず、触れるだけのキス。大分その感触にも慣れてきた。
「あの、エドワードさん?」
 唇を離すと、深刻な表情でエドワードは何かを考えている。彼の思考が読めなくて困惑した。
「アルフォンス」
「はい?」
「オレのことが好きってことは、オレに欲情するってことなのか?」
 あまりにも単刀直入の問いに思わず答えに詰まった。茶化す表情でないから、真剣な問いであるらしい。
「……それは、まぁ……、そうですね」
 奇妙な返答になったが、素直に欲情します、とだけ言うことは困難だった。恋愛感情として彼を見ている以上、それが道理だ。同性だろうと、恋をしてしまった以上、頷くしかない。
「そっか」
 軽く頷いたかと思うと、エドワードは立ち上がった。部屋に戻るのだろうかと思いながら彼を見ていると、おもむろにベストのボタンをはずし始める。
「え、エドワードさん?」
 何故この場所でいきなり衣服を脱ぎ始めようとするのか理解できず、思わず彼の名を呼んだ。
「なんだよ?」
 あっけらかんと返事を寄越されたが、なんだよ、と言われてもアルフォンスも困る。
「何でここでボタンなんて外すんですか……っ?」
 仮にも己に欲情する、と言った男が目の前にいるのに、無防備にも程がある。
(たしかに元々、無防備なところがある人だったけど)
 だがしかし、やはり無防備すぎる。これからは同居自体、考え直すべきかもしれない。
 自分の理性をどこまで信じて良いものなのか、それはアルフォンス自身にとっても謎だった。完全な両思いならばともかく、そうではないのならある程度距離を置いた方が良い。彼にとっても、自分にとっても。
「キスしてもわかんねぇけど、その先も経験すればわかるかもしれないだろ。幸い、お前はオレに欲情するなら行為は可能なわけだし」
「…………」
 思考が止まった。一体このひとは何を言っているのだろう。暫く呆然としている間に、彼はベストを脱ぎ、更にシャツまで床に落とした。
 その頃になって、ようやくアルフォンスは思い出していた。エドワードというひとは、とてもはかなくて、綺麗で、賢くて。……けれど、時として賢すぎるからなのか突拍子もない言動をするときも、確かにあるひとだった、と。
 そして今まさにその『突拍子もない』できごとが起こっているというわけだ。
 夜目でも、月明かりのせいもあり彼の身体は良く見える。過敏なほど肌を隠すひとではなかったから、その義肢もすでに見慣れていた。けれど、こんな風に夜中に見るとまた違った印象になる。均整の取れた、きれいな身体だ。義肢の存在が痛々しく、一方でどこか艶めかしい。
 ごくり、と無意識のうちに息を飲んだ。
 上半身だけが裸の状態で、けれど彼の動きは止まった。躊躇いの色が見える。どうやら少し冷静になったらしい。
「アルフォンス」
 名を呼ばれた。頼りなげな声だった。
「……やっぱり、」
 やめよう、ときっと言うつもりだったのだろう。けれど、その言葉を待たずにアルフォンスはエドワードの腕を引いた。するとあっさりと彼は自分の胸元へと飛び込む形になる。そのまま彼を強く抱きしめた。
 彼の体温は思いの外低い。こんな風に肌を夜の空気にさらしているのだから無理もないことだった。
「好きです」
 主語など必要なかった。ただ、思い浮かんだ言葉を口にする。知らなかった。こんなにも、感情とは激しいものなのだと。恋とは、眼の眩むような感覚を呼ぶものなのだと。
「……うん」
 小さくエドワードが頷く。微かに彼が震えているのは、寒さからだろうか。それとも、他の理由からだろうか。
 生身の肌に触れてしまうと、離すことができなくなった。誰よりも欲しい存在が目の前に、それも無防備な姿で存在している。どうして離すことなどできるだろう。
 こんなにも、彼が欲しいと思うのに逃すことなどできるはずがなかった。綺麗な、きれいなひと。欲しいと思うことは罪だろうか。鳥籠の鳥を、広い世界を恋しがるその鳥を愛しいと、そう思うことは。
 けれど、罪だとしても。
 ――――――もう躊躇うことはなかった。

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