パチスロ回顧禄「コインの価値、人生の価値」


(ストーリーは半フィクション。登場人物は全て仮名、またはハンドルネームです)



第一章 〜始まりは、いつも欲望から・・・〜
第二章 〜思い出せば、遥か昔・・・〜
第三章 〜優位を保つことは、自らの世界に引きずり込むこと〜




第一章 〜始まりは、いつも欲望から・・・〜

パチスロどころかパチンコも競馬も麻雀も、およそギャンブルと呼ばれるものとは無縁な世界に居た自分。経験したギャンブルと言えば、高校生の時「当選金は7億円。一緒に夢を見ようよ」と両親を騙して買わせたオーストリア宝くじくらいなものだった・・・。

金とは人から貰うもの。そうでなければ自分で働いて稼ぐもの。それが全てであると思い込んでいた。両親からお小遣いとお年玉を恵んでもらいながら、親父の疲れた背中を子供心に見守りながら、そう信じて疑うことが無かった。
金の成る木などそんな都合の良いものは無く、無から有を生み出すのは世の摂理に背いていると。だから俺は親父のように立派な大人になってやるんだと・・・。

だけど常識に囚われた者ほど、その常識外に出くわした時には・・・脆い。清廉であればあるほどに、汚物に直面した時その抗体は機能しなくなる。
ギャンブルとは、紛れも無く汚物の筆頭であった・・・。

ならば、なぜ脆いのか?なぜ抗体が機能しないのか?
ただ意思が弱いからかもしれない。世間を知らないヒヨッコゆえ心の隙に付け込まれるのかもしれない。どちらにしても、それは人の価値に直結するもの。いざという時、意思が弱くなる現象を「有事の際の役立たず」と人は呼び、そう呼ばれるのが嫌だから人はより多くの経験値を蓄えようと、何とか周囲を上回ろうと、進んで世に揉まれるのだ。
それ全てが自分の価値を主張する為。逆に言えば、他人に舐められない為。
人は、ただ舐められない為だけに苦労を進んで買うことが出来る存在だった・・・。

だけど本当のところはどうであろう?意思の弱さと経験値の浅さを克服することは、ギャンブルという汚物にまみれる可能性をシャットアウトする絶対条件になりうるだろうか?
必ずしもそうとは言い切れない。いくら意思が強かろうと経験値を積もうと抗えない場面、無意識に捕われる局面というのは誰にでもあるだろう。
例えば、社会に範を垂れる経営者が影で収賄やインサイダー取引に手を染めるというパターン。例えば、家庭では良き父として、会社では良き上司として行動する隙の無いサラリーマンが、実は援助交際に嵌っているという裏事情。そして例えば、世を悟り切ったように落ち着いた好青年が、実はギャンブル狂だったという驚愕の事実・・・。
経験値は本当の意味での応用力を発揮しない。世の酸いも甘いも味わったからと言って、それが意思の強さや自制心に繋がることにはならない。なぜならば意思の強さや経験値とは、しょせん後付けの感性だからである。それを上回る本能の存在が、全ての人間に等しく埋め込まれているからである。
先付けの感性とは本能。本能とは生きること。そして生きることに必要なのは、後にも先にも金なのだ。
よくTVで見かけるニュース。その原因を辿ってみれば大抵は男女関係か、そして金。それはまさしく、原始的本能こそが人を狂気に突き落とす事実を如実に語る「人間白書」に他ならない。
勿論、その原始的本能の発露には様々なパターンがある。いや、厳密に言えば二通りしかないのかもしれない。つまり、余裕がある者が更なる欲求を満たす為に行うものと、余裕の無い者がやむなく行うという二通りである。
余裕がある時は大らかになれるが、それだけでは満足出来ないもの。余裕の無い時は、まず一定基準の満足を満たしたいと願うもの。全ての人は、ただその両極端で結ばれた線上のどこかに存在しているに過ぎない。違いは、その身を置いた点がどの辺りにある、ただそれだけでしか無い・・・。
つまり、根本的には同じ。人は皆、本能に根付いた行動を取っている。
ギャンブルとは、そんな人間の本能を剥き出しにする代表格と言えた・・・。

そういうわけで、人は等しくギャンブルに染まる可能性を持っている。表面的には違うかもしれないが、一定の条件を満たせば自制心は崩れるだろう。本性とはそれほどに強い。あまりに深い部分に眠っているから気付かないだけで、だからこそそれが引き出されてしまった時、後付けの教育や経験などは一瞬にして吹き飛ぶ可能性があった。

結局のところ、自制心とは場面によってはまるで働かないもの。意思の強さや経験値とは、限定されたカテゴリでしか発揮されないもの。本能を押し殺して意思を鍛え経験を積むには長い年月が必要で、だからこそ人は世の中のほんの一握りの場面でしか存在感を主張出来ない。全てを得るまでに死んでしまうから・・・。
そしてだからこそ、その存在感を主張出来る領域以外では脆くも本能に敗れ去る。
要するに、汎用的で表層的な常識では一分野における常識に決して到達出来ず、まして全ての分野に汎用として通用する本能には抗えない。最終的なところで、人は金の概念を覆せないものであった。

また、人は熱くなれる自分を心の底で期待するもの。平穏無事を祈りながらも、どこか非常識や熱狂に酔いたいものである。
だが、熱くなるには少なくとも何かを犠牲にしなければならないだろう。
それは常識だったり、羞恥心だったり、時間だったり、人だったり。そして、あるいは人生だったり・・・。

金には人生を棒に振る魅力がある。いや、人生を棒に振るのではなく、棒に振らない為に金を得ようとするのかもしれない。その結果、あらゆる犠牲を厭わないだけかもしれないが。ギャンブルもまた、その金を得る為の手段の一つ・・・。
そして、熱狂への羨望はいつでも奥底に眠っている。そんな真に熱くなれば周りが見えなくなる人間の本性に照らし合わせた時、ギャンブルの存在価値は決して消えない。たとえ安直で短絡的なものであろうと、人間の本能に息衝いているものを止めることなど出来る筈も無いのだから・・・。
その領域に居てなお後付けの理性を保とうとするならば、遊び心でやるしかない。またはその場所自体に近付かない道を選ぶしかない。究極の防御とは、関わらないこと以外に存在しないのだから・・・。

本当の意味でのギャンブルとは文字通り命を賭けたもの。理不尽に大金が動く様をまざまざと見せ付けられ、かつ本能的な熱狂をその身で実感出来た。
だからその領域に入ってしまった者はもはや戻れないのであり、それを避ける為に、人は常に遊び感覚を忘れなかった。
全て、人が人であるために・・・。

ギャンブルとは、人が作り出した悪魔の領域だった・・・。


そんな教訓があるのかどうか分からない。
だけど、誰しもがある程度の冒険は試みるだろう。
それをギャンブルと呼んで良いのか分からない。
だけど、世間でギャンブルと呼ばれているからには、それを常識として良いだろう。
その常識に照らし合わせた時、その人にとってのギャンブルとは果たしてどれか?果たして何か?
自分が選んだギャンブルは、主にパチスロだった・・・。


パチスロ。学生時代は良くやったものである・・・。
今はやらない。たまにコインをつまむことはあるが、ギャンブルはしない。社会人になってからそのポリシーを崩すことは無く、これからもそうであると確信していた。
しかし・・・。


「吉宗(大都技研)」


この機種がそのポリシーを崩す。
出玉一撃711枚。一ゲーム連チャンの可能性、五回までのストック機。これが全てを狂わせる。
10万円単位での金銭変動が当たり前な「吉宗」を前にした時、その事実をこの手で味わってしまった時、自分の培って来た自制心は、強固だと思っていた理性は容易く吹き飛んでいた。

俺は、本能のままに動く学生時代に戻っていた・・・。







第二章 〜思い出せば、遥か遠い日・・・〜

俺がパチスロを始めたのはいつ頃だったか。
最初のパチスロ、あれは・・・。
そう。俺がまだ二十歳にも満たぬ学生時代、京都に居た頃・・・。
友人・コバヤシが、俺に向かって唐突に切り出したのだ。

「さわたり、パチンコ行かへんか?」

俺もパチンコの存在くらいは知っている。だけどそれを自分でやろうとは思わない。
あれをやると、いけない人間の仲間入りをする気がするからだ。何となく・・・。
それに、いい子ちゃんな俺にはギャンブルの才能は無いと思うのだ。やはりこれも何となく・・・。
だから俺は行かない、行く気が無い。コバヤシには悪いが他を当たってもらおう。独りで楽しんでもらおう。頼むから俺を悪の道に引きずりこまないでくれ。鳥取から出て来たばかりの俺にとって、パチンコなどは闇の属性以外の何者でもないんだから。まずは大人の処世術を身に付けねばならない、そんなヒヨッコな段階なんだから。
そもそもその前にだな・・・。
俺は小心者なんだよ、コバヤシ・・・。

だけどコバヤシは、強引に俺に迫る。パチンコもまた人生経験だと、悪いことをしていそうな不敵な笑みで俺を強固に勧誘する。何となくで事を決める俺は、そのしたり顔に抗うことが出来ず・・・。
気付けば、京都は北野白梅町。その一角に存在するパチンコ屋「ニューパラダイス」の扉を、俺は潜っていた・・・。

これ以降、同じ部活に属しながらも今一疎遠だった俺とコバヤシの関係は瞬く間に親密になり、二人の合言葉は「ニューパラ行こうぜ」となる。
その存在を人はギャンブル仲間、または悪友と云った・・・。

そんな悪友・コバヤシの金魚の糞として同行する俺。
初回の結果は勝利で締め括ることが出来た・・・。
コバヤシはそれを「ビギナーズラック」だと称し、良くある現象だと得心していたが、俺には何となくピンと来ない。ギャンブルが運に左右されるのは分かるが、何故初心者だけがその恩恵を受けるのか、と・・・。
今ならば当然分かる。理論の解明には至らないけれど、ビギナーズラックというものが紛れも無く存在するのだと経験則で分かっている。2003年、今現在の俺は、それが分かるほどに数え切れない場数をこなしてしまっていたのだ・・・。

そんな現在の俺の感性と行動パターン。そしてそれを開花させてしまったコバヤシ。
最初はコバヤシの言に従っていただけの木偶の坊な俺も、次第と自分で判断するようになってきた。たまには一人でホールに入り、自分で台を選び、勝利の美酒に酔いしれるようになって来た。
だがこの時の俺は、まだ遊びの領域を出ていない。使う資金は数千円。頻度は週に一回行くかどうか。たまにパチンコを嗜むだけの一学生に過ぎなかっただろう。
それに変化をもたらしたのは、パチンコ屋にパチンコのオマケとして設置されるパチスロ機。
パチンコ屋「キングスター」に一人で出向いた時、そこに静かに佇んでいた山佐の2号機「ビッグパルサー」。その席に座ってしまった時、俺の運命は決定したのかもしれない・・・。

何故パチンコでは無く、敢えてパチスロをやったのか。
まず一つとして、パチンコは確かに楽しいが俺にとっては何故か熱くない。いくら金を吐き出す機械と言っても、ただハンドルを握っているだけの無為を過ごすのは俺には納得出来ない。自らの指でボタンを押し続けるパチスロの方が、幾分運命を操れるように思えたのだ。待っているよりも自分から切り開く存在を、俺は切望していたのだ。
今となっては、それはただのまやかしに過ぎないけれど、当時の俺は小手先で運命を左右出来るのがパチスロだと信じ込んでいた・・・。
そしてもう一つの理由。それは、パチンコではコバヤシに追い付けないと知っていたから。奴が発掘しそれに誘導されただけの俺は、パチンコをやっている限りいつまで経ってもコバヤシの後塵を拝すだけの存在なのだ。
そこに主導権は無い。たとえ勝ち金額で奴に勝ったとしても、心が奴に負けている。自分がパイオニアにならない限り、密かな優越感は満たせないのだ。
だから俺はパチスロを選ぶ。それを以ってコバヤシと対等になろうと考える。たとえちっぽけなプライドであったとしても、それは俺にとって納得の行く行為だったろう。
そして俺は・・・。
井の中の蛙。鶏口牛後。そんな言葉の存在を、このパチスロという金と無機物が織り成す閉鎖空間で感じ取れたのかもしれない・・・。

そんなパチスロ「ビッグパルサー」の初勝負。
俺は負けた。投資3000円で勝てる道理も無かったのだが・・・。
しかし、ビッグボーナスは引くことが出来た。今思えば、投資3000円でビッグを引けたこともまたビギナーズラックだったのかもしれない。勝つことだけが全てじゃないのかもしれない。
その証拠に、俺はかつてない昂揚感をその時覚えた。たった一回のビッグだけど、自分の指で7を揃えたという達成感が何とも形容し難くて、それが大当たりの音楽に乗ってかつてない感動を呼び起こして・・・。
俺は、あの時抱いた息の止まるような感動を今でも忘れられない。
あの時吐き出されたコインを、そのコイン達がぶつかり合う心地良い旋律を、そして身体に走った戦慄を決して忘れることが出来ない。

それは、俺のパチスロ人生の幕開け。
コバヤシと同列に並んだ瞬間。
これから始まる長くて遠い道程の、だけど熱くて激しい物語の第一歩だった・・・。







第三章 〜優位を保つことは、自らの世界へ引きずり込むこと〜

山佐「ビッグパルサー」でデビューを果たした俺は、それからしばらくの期間、独りで行動し続ける。自らホールを探し出し、リーチ目の種類を覚え、台にある波を読み取る修練を積み重ねながら・・・。
俺は、何時の間にかパチスロに慣れていた。
そして俺は、パチスロを心から楽しむようになっていた。
投資金額が万の位を超える事態は未だに訪れないけれど・・・。

その間、コバヤシは相も変わらずパチンコをこなしている。
奴は、パチスロに開眼した俺を特に邪険に扱うことも無く、「同じギャンブルなんだから別にえーやんか」と飄々たる反応。それは優しさなのか、それともただ興味が無いだけなのか・・・。
分かっているのは、パチスロ派の俺とパチンコ派のコバヤシとでは、その話題が一致しないということ。故に交わされる会話は「いくら勝った、いくら負けた」という結果報告に止まっていた・・・。

毎回の如く行われる情報交換。しかし金額の高についてしか語らないのが何となく虚しいと俺は思う。
だからだろうか。コバヤシにパチスロを教えてみようと思い立ったのは・・・。
俺は、もっと深い話がしたかった。「幾ら勝ったか、幾ら負けたか」という結果論では無くて、「どう勝ったか、どう負けたか」という過程をこそ検証したかった。独りではなく、誰か同じ場所に立つ者と・・・。

知識というものは、溜め込んでいるだけでは充実に結びつかないもの。披露しなければ満足しないものである。また、溜め込むと同時にストレスをも呼び寄せる厄介な存在だろう。だけど人は知識を吸収せずには自分を成り立たせることが出来ないから、それをせずには居られない。つまり人は、知識の吸収と放出を同時にこなすことでようやく一定ラインの幸福感を得られるのだ。その放出と一緒にストレスも吐き出せれば尚良いだろう・・・。
他人の存在意義とはまさにそこにある。知識の吐き出し先と、ストレスのぶつけ先。その両条件を満たす対象として、他人は無くてはならない存在だった。

そんなわけで、俺は独り溜め込んだパチスロ知識を誰かに放出したくてたまらない。結果だけで無く、その過程を語る相手が必要である。
だからコバヤシにパチスロを教えた。何も知らない人間に語っても虚しいことは知っているから、そんな独り芝居を避ける為に奴を同好の士に仕立げて・・・。

それにしても、何故俺は奴の領域であるパチンコに引きずられるのでは無く、自分の領域に奴を引きずり込もうとしたのか。それは多分、奴より優位に立ちたかったから・・・。
ギャンブルという存在を奴から教わったからには、決して総合力で奴を超えることは出来ないだろう。だからこそ非力な力を集中させねばならず、的を絞らねばならないのだ。奴より格下だからこそ、奴の知らない領域を開拓し、そこで戦闘力をクリアーにしたところで戦わざるを得なかったのだ。それでようやく戦闘力が互角になる。つまり俺は、パチスロの先行者になることで奴を少しでも出し抜き、足りない戦闘力の埋め合わせをしたのだろう・・・。
だけど本当は、ただパチスロという面白い遊戯を知って欲しかっただけなのかもしれない。自分が好きなものは人にも知って欲しいのが人間だから・・・。
しかしそれ以前に、独りでやることに対してえもいわれぬ無味乾燥を感じていた。誰か独りでも仲間が居ないかと切望していたのだ。それだけで世界はまるで違うのだから・・・。
結局のところ、俺はただ寂しかっただけなのかもしれない・・・。










【メニューへ戻る】

【ホームへ戻る】