本格数学小説のアンソロジーとして日本で唯一出版されているのが今回とりあげる『第四次元の小説』である。あまりにもエポックメイキングな書物なので、また再度とりあげる機会もあると思う。
本書の原著は1958年に米国で刊行されたFantasia Mathematicaである。この原著の詳しい話もまたの機会に譲りたいが、原著は比較的大部の本で詩なども多数収められているが、邦訳版は小説の一部をセレクトして訳した抄録である。
邦訳版の初刊は、なんと原著刊行からたった1年しか経っていない1959年。版元は荒地出版社で、現在も続く、やや地味ながら手広い出版社である。本書を皮切りに翻訳SF・ミステリ系のアンソロジーも多数出しているようだ(AMEQさん作成のリスト)。
この荒地出版社版の表紙は、ダリの絵画を使っている(註)。裏表紙は、昔の本にありがちな、活字だけで構成した500字ほどのミニ解説になっている。[新しき小説形式の誕生!!]と題されたこの解説文は、出版社の意図を明確に表しているといえるだろう。
冒頭部分を引用する:[ここに収めた小説は、真夏の夜の夢のように、読者を数学的論理の軌道に乗せてある奇妙な仮設の世界に拉し去る不思議な魔力に充ちています。現実にはありうべからざる物語ですが、論理的にはまさに可能な異次元の世界に、読者は居ながらにして旅することができるわけです。] また、結語部分はこのようである:[想像力を基にした「小説」と、客観的法則から成り立つ「数学」という一見矛盾した結びつきが、驚きを楽しみに、空想を科学に変え、一度読みだしたら途中で現実に戻れないほど、あなたを惹きつけてしまうに違いありません。ありきたりの推理小説や空想科学小説に食傷した読者に是非一読をおすすめします。] ――これは、あとがきとあわせて、原著のスタンスよりもやや踏み込んだ、鮮明なジャンル宣言である。
荒地出版社版の収録作品は以下の通り。
邦題 | 作者 | 原題 | 原発表年 |
---|---|---|---|
悪魔とサイモン・フラグ | アーサー・ポージス | The Devil and Simon Flagg | 1954 |
歪んだ家 | ロバート・A・ハインライン | --And He Built a Crooked House | 1940 |
頑固な論理 | ラッセル・マロニー | Inflexible Logic | 1940 |
はみ出た教授 | マーチン・ガードナー | No-Sided Professor | 1946 |
タキポンプ | エドワード・ペイジ・ミッチェル | The Tachypomp | 1873 |
五色の島 | マーチン・ガードナー | The Island of FIve Colors | 1952 |
最後の魔術師 | ブルース・エリオット | The Last Magician | 1952 |
A・ボッツとメビウスの輪 | ウィリアム・ハズレット・アプソン | A. Botts and the Moebius Strip | 1945 |
数学のおまじない | H・ニヤリング・Jr | The Mathematical Voodoo | 1951 |
メビウスという名の地下鉄 | A・J・ドイッチュ | A Subway Named Moebius | 1950 |
なお、同じく荒地出版社より1971年に、位相幾何学者の本間龍雄の解説を付加したエディションも刊行されている模様(未見)。
訳者が三浦朱門というのがまた驚きである。当時30歳代前半。言うまでもなく第三の新人(今や長老)のひとりとしてすでに有名な作家であった。三浦は20歳代に高校で英語を教えたりしており英語も得意、実は訳書も多い。
数学ももともと嫌いではないようで、というよりもむしろ好きなようである。孫引きになるが、81年の数学セミナーに載った藤原正彦教授のエッセイ「数学と文学のはざまにて」では、「講演に行って、寝つきの悪いときは積分の計算をする」ほどの数学好きだと紹介されている。
くだけた一面もあり、例えば近年の著作『三浦朱門のコミック談義』(小池書院)では戦前から劇画時代までの漫画史を思いいれたっぷりに綴っている。ちなみに同書には「SFと恐怖」と題する一節があり、初期のSF・SF漫画を現実批判、現実逃避と位置づけて論じ、ただそう否定的でもなく語られている。キプリングの『ジャングル・ブック』をSFに数えるべきだとするあたりにこの評論の面白さが集約されているように思う(後述する小学館版のあとがきでターザンでE・R・バロウズのファンになったと書いているのも、なんとなくつながってくる)。
ところで、三浦は80年代は文化庁長官、90年代は文部省の教育課程審議会の会長をつとめた。現在なにかと俎上に上っている新学習指導要領の原案をリードする立場にあった人物であり、むしろ数学・科学教育の敵だと思っている人も多いだろうと思う。さらには夫人の曽野綾子は「解の公式やピタゴラスの定理が生活に役立ったことはない」とか首相の諮問機関・教育改革国民会議での「バーチャルリアリティは悪である」などの身もフタもない発言で、はっきりいえば悪目立ちしている。
しかし著書をいくつか読んでみると、三浦の立場は決して反教育的ではないことがわかる。むしろ、よく考えられた教育によって人間の資質を高めることのほうにはるかに関心があるとみる。ただ、夫人の数学蔑視(?)発言を多少揶揄しながらも受け入れ、従来の単一規格的な学校教育観を否定し、個人が脱落することを容認するに至ったようである。例えば、『日本人をダメにした教育』(海竜社)ではこんなふうに書いている。[確かに曽野綾子は数学や理科の学力はないかも知れないが、彼女は決して愚かな人間ではない。ネコに芸を教えることが難しいように、イヌに木登りを教えることも無意味なのである。ネコはネコとしての、イヌにはイヌとしての生き方がある] また、『我流・教科書検定』(小池書院)では、思考力を鍛えるという意味で数学という課目は重要とし、[数学Iは必修というのは妥当だが、これ以上在来の数学をやりたくない生徒は、是非ともこの確率や統計の基礎を身につけてほしい、私は考える。]と決して低すぎるとは思えない目標を掲げると同時に、また、[脱落した人たちにも、数学は生徒を苦しめるためではなく、それがどれほどの貢献を人類の進歩に果たしてきたかを知る機会を与えるべきである。]と曽野との対話の産物とも思える主張を述べている。
ちなみに、前掲書『我流・教科書検定』には少し面白い記述がある。現在ニール・スティーヴンスンの暗号SF『クリプトノミコン』(早川書房)の邦訳刊行がすすんでいる関係で、暗号解読者への関心が高まっていると思われるので紹介しておこう。日本軍の暗号解読に後の日本作家たちが携わっていたという話である。[大体、文士などは数学は不得手という者が多いのだが、彼らの中には暗号係が多いのには驚かされる。暗号の解読というのは軍隊の中でももっとも高い知能を必要とされる分野の一つで、語学と数学の資質を要求されるのである。] 阿川弘之、有馬頼義、梅崎治夫、小島信夫、五味康祐らがそうだという。彼らは数学の成績はあまりよくないとしても、実は高い知能と資質を持っていたという趣旨の記述である。この考えは、三浦の数学小説観にも関係しているようにも思える。
(なお、三浦朱門の小説で、気になっているものがいくつかあるのだが、残念ながら本がすぐには入手できなかった。また次回以降でふれるか、または今回分を後日補筆することになると思う。)
さて、『第四次元の小説』の話に戻る。巻末の訳者の「あとがき」は、以下のようである。
まず、[虚数が実在する――変な言葉だけれど――世界]に夢をはせた中学時代を回想し、また計算技術にたけた数学の得意な同級生と比較して、[虚数に神秘的なイメージをたくすような人間は恐らく数学的な素質がないのだろう]と韜晦する。 原著 Simon and Schuster 版にも[Mathematicians, stay away from this book!] などと書かれてあるのに似て、この訳者あとがきも、大部分の行数を費やして、数学嫌いの人こそ数学的な[神秘]や[妄想]を感じとることができる、と数学好きのためのマニアックな本ではないことを訴える。
しかし最後になってやや踏み込んだ主張が表れる。[またどの作品にも、数学的な問題、トリックが使われている、という点から考えると、数学小説というのは、そしておそらく科学小説も、それ独自のジャンルを持つものではなく、探偵小説の私生児なのではないだろうか。探偵小説も論理的に犯罪を分析する探偵がいる訳だが、数学小説もまた、論理的に一つの問題を解決する、という形をとる場合がある。] この一文は、SFもMFも対等に、変格探偵小説として捉えているわけである。筆者は、むしろ、ミステリがMFの一種であるともいえるのではないかと思ってしまう。
ちなみに、なるほど、そういわれれば邦訳版のセレクションはミステリ色が強い。宇宙艦隊の戦争を扱った Authur C. Clarke のSuperiority[邦訳「優越性」短編集『前哨』所収]が外されたのもそういうわけかもしれない。
長らく、この『第四次元の小説』は絶版だったわけのだが、1994年に全く新しく再編集された版が刊行された。小学館〈地球人ライブラリー〉の1冊としてである。この叢書は若年層をターゲットに、大人の読書人に育てる狙いのもののように思われる。表紙には、「幻想数学短編集」と副題がつけられたが、編集的には、SF色が強くなっている面もある。
収録作品はさらに減っており、ガードナーが2編とも削除されている。ルーディ・ラッカーがFantasia Mathematicaの現代版を企図した自身のアンソロジーThe Mathenautsにもわざわざその2編を重複して収めているのと対照的である(なにか権利上の問題があったのだろうか?)。また、作品の配列が変わり、意図したものかどうかわからないが、「タキポンプ」を冒頭にもってくるなど、完全にではないが、おおむね原作品の発表順に再配列されている。
作品数が減ったかわりに、1編ごとに吉永良正による解説コラム(見開き)と、巻末には10ページにおよぶ関連ブックガイドが付加された。このブックガイドは、啓蒙書、パズルの本、幻想小説、数学SFと幅広い分野から、いいところを押さえているように思う。
まず本文を一見して、傍注がきわめて多いことに気づく。数学用語だけではなく、ほとんどの人名について詳細な注がつけられている。
また訳文を対照すると、結構細かく訳文が変わっているところがある。味わいは以前と同じだが、固有名詞の表記や数学用語などがより現代的になっており、 文章的にも改められているところがある。例えば、重箱の隅をつつくようだが「悪魔とサイモン・フラッグ」の一文 [he said mendaciously.] は [彼は偽善的な態度でそういった。] → [彼はわざと楽しそうにそういった。]
訳者あとがきは全面的に差し替えられた。荒地出版社版では、裏表紙で[新しき小説形式]とぶちあげ、訳者あとがきでも科学小説(SF)と対等に数学小説という言葉で内容を規定していたのだが、小学館版はまったくトーンが違っている。「あとがき――SFと私の関わり」と題され、数学小説という言葉はまったく出てこず、すっかりSFの短編集を出したことになってしまっている。内容は回想エッセイで、簡単にいえばSF好きだということで星新一から接近を受けたのだが、星ほどには入れあげてはいなかったので気持ちがすれちがった、というものである。E・R・バロウズへの思い入れを正直に語り、また一方で、(星が語ったような)文学としてのSFへの敬意をも明確に表明している。そして、本書はその中間、あるいは両方の要素を兼ね備える巧みなアンソロジーだとファディマンを賞賛して結ぶのである。すっかりSFの枠内におさまってしまっている。これは、世間の認識として、SFが数学小説を吸収してしまったということかもしれない(この傾向はThe Mathenautsの収録作品をジャンルSF作家が固めていることなどからもうかがえる)。
細かいのだが、このあとがきはもうひとつ謎を含んでいる。三浦は、『第四次元の小説』を出した後で、1955年ごろに星と会ったと書いているのだが、年代的にそれはありえない。記述のどこかが間違っているのだが、もし1955年というのが正しいのなら、交友のきっかけはいったい何だったのかが少し気になる(もしかしたら漫画だったのかなあ、などとも思うのだが…)。
あとがきに続き、森毅による書き下ろし解説が収録されている。なんとも豪華である。「解説――SFと数学」と題されているが、この解説は実は荒地出版社版の「あとがき」へのアンサーである。訳者あとがきが差し替えになっているため、わかりにくくなってしまったのが惜しまれる。
解説の前半は虚数の神秘について。虚数が嫌いだった湯川秀樹との出会いを通して、数学はフィクションなのか現実なのか考察する。[数学というのは、たしかにフィクションはフィクションなりに、その世界を作るもので、そのフィクションの世界に一種のリアリティを感じるようになる。それが現実の世界と違うことぐらい、わかりきったこと。むしろ、虚数だからこそ、世界を見る力になる。] また、現代の数学者は複素数を現実のものとして受け入れているし、八元数に現実感がともなうような未来さえもありうる、また、[実数だって、虚構と言えば虚構である] と、きわめて数学者らしい回答を向けている。
そして解説の後半は、(本書が集めたようなタイプの)数学小説への懐疑である。別の異世界ではなくて、日常世界を舞台にしている作品ばかりであることを問題視している。[数学及び数学者を異者として対象化することになる。それが、火星人になったり悪魔になったりするのは、異者のメタファーとして、メルヘン以来の伝統に属する] つまり、これはSFではないじゃないか、と言っているのである。これは“数学SFはファンタジイ”(京都SFフェスティバル'93での大野万紀の発言)という考え方にも通じるところがあるが、森はハードSFではなくニューウェーブを想定しているので、少し切り口が異なる。SFでないから何だといってしまえばそれまでのようだが、小説形式として古いという批判なのだろう。
なお、[ニューウェイヴ系のSFとして、いくらかは数学がからんで、それなりに成功しているものもあるけれど、それはここで言う数学小説とは違いそうだ]と述べている。具体的な作品名を挙げていないので、その作品が、ノーマン・ケーガンの2作品を指しているのか、また山野浩一『花と機械とゲシタルト』を指しているのか、あるいはまた別のものなのかは不明だ。とにかく、数学小説にもオールドウェーブとニューウェーブがありそうだ、という指摘であり、多少救いになっているようである。
最後に小ネタ。『第四次元の小説』はなんと発音するのが正しいか? 四次元は「よじげん」だが、「第四次元」は「だいよんじげん」だ、と筆者は思っていた。「第四」は「だいよん」だからだ。しかし紀伊国屋のDBでも、小学館版の奥付のルビでも、「だいよじげん」だった。はて? 考えるうちに、もしかしたら「しじげん」が漢語として最も正しい読みのような気もしてきた(さすがに通じないだろうけれども)。