狂犬の渇望


気が狂れてでも生き残るのがいいのか、正気でいる為に死ぬのがいいのか。
そんな選択肢はそれが選択肢だと理解出来る前には否応なしに訪れ、
意味を理解出来ないまま本能のままに選択した。

だから生き残る為に物心ついた頃にはもうとっくに狂っていた。

生きる為に、生きて息を吸い、物を食い、明日へ命を繋ぐ為にその為なら何でもした。
他人に体を開く事も、物や命を奪う事も。
恥も外聞も情も常識も極限の中で生きて行くには何の役にも立たない。
その役にも立たないものに振り回されて死んでいく者を流れる景色の如く見てきた。
「だから」とか「馬鹿だ」とすら思わない程無感情に。

只々より確実に生きる為に世の中の流れを読み、得た技と情報と知恵を生き抜く為だけに使い、
表に晒す柔和な笑みも、弱者の顔も、
そう見せかければ見せかける程、弱者も強者も関係なく付け入り易いというだけの理由で張り付けた。
見向きもしないまま通り過ぎる人も、疑う事無く優しくしてくれる人も、
付け入り利用して食い物にしようと目論むヤツも居た、だがどんな反応でも構わなかった。
最終的にどう利用するかは全て自分の手中だったから。
どんな反応でもそれらが自分の情へ響くことなどない程に狂っていたのだから。

あぁ、でも……と
そう言えば自分の情が動いているかもしれないと思う瞬間があったなとふと思い至った。
無視された時でも優しくされた時でも酷い目にあった時でもなく、
辺りが紅く、紅く染まるあの瞬間。
誰でも構わなかった、何でも構わなかった。
所構わず紅を撒き散らし、悲鳴を、命乞いを、恨み言を撒き散らしながら動かなくなるあの瞬間だけは、
酷く、楽しかった。
自分にとっては善人も悪人も意味のある事ではなかったが、それは悪党程楽しかった。
悪党であればある程最後まで意地汚く生にしがみ付いてしぶとく足掻いてくれるからと言う理由だけだ。
何より、善人より簡単に俺と言う餌に食い付いてくれる。
油断しきった所を反撃する間も与えず切り裂いて、見開いた目が曇るのを眺めるのも、
反撃するのを、逃げ回るのをジリジリと追い切り刻むのも、どちらも同等に楽しいと思った所で、
なんだ自分にもちゃんとあるじゃないか【楽しい】という感情が、と愉快になる。
そこにリンクしている先が常人とは違うというだけで。
これだから、とこれまた愉快な気持ちで安心する。狂っている正気の自分に安心する。

常識で言う所の正気なんてモノが果たして自分に最初からあったのかどうかさえももう分からない。
物心ついた頃にはもう自分の正気はこうだったから。
生まれ落ちた最初は少しはまともだったのか、それが狂ってこうなったのか、
それとも生まれ落ちた最初からこうだったのか誰にも、自分にも分からない。
もう禄に思い出せもしない朧な記憶からすでに自分は独りで、こうだった。
これが自分なのでそれを悲しいとも、苦しいとも、嬉しいとも思わず違和感なく認識するしかない。
それが狂っていると言う事ならば、自分の正気はもうずっと狂っている。
だがやはり、その事は自分には何の情も起こさせない。
今自分の情に響いているのは今自分の上で無防備に腰を振っている、
偽りの弱者を本物だと思い込み、
嬲る事で悦にいっているこの男をどのタイミングでどう刻もうかという事だけだった。
体のぶつかり合う乾いた音とそれに混じる濡れた音。
頭の上から浴びせられる辱める為の嘲りと、
揺すられる度に自分の口から発する音を他人事にように聞きながら。

「…っひ、や、もぅ、やめ…っ!」
「ははっ、嬉しそうに締め付けておいて嫌じゃねーだろうが」
「違ッ……あっ!ひあぅ!!」
容赦なく突き上げられた衝撃に苦痛の悲鳴が上がる。
いくら中身が狂っていても体の感覚まで狂っているわけではなく、
痛みも快楽も他の人間と変わらず同じように感じる。
ただいささか痛みに強く、感じる快楽も感情にリンクしていないというだけの話だ。
いかにも虐げられた弱者のように悲鳴や哀願、喘ぎが上がる様は迫真に見えるだろう。
感じる感覚に嘘はないのだから。
生理現象で零れる涙を堪える事無く流せば、相手は自分こそが強者なのだと信じて疑わない。
それを感じ取れば感じ取るほど、
この男はどんな風にして惨めに足掻いて動かなくなるのだろうかと想像して益々楽しくなった。
そろそろ頃合かと思い隠した得物に手を伸ばしかけた瞬間、男の重さが半減した。
今まで見えていた男の上半身はいびつに歪み爆ぜたように血肉を見せながら割けて、
そこから見えなかった筈の背後の景色と人影が窺えた。
大方通りすがりの善人だろうと思ったが、
普通善人は幾ら悪人相手でも有無を言わさずイキナリ真っ二つに切り捨てたりはしない。
その事に引っかかりは感じたけれど、それ以上に楽しみを寸での所で横取りされた不快感の方が勝った。
「……あ~あ、俺が切ろうと思ってたのに。人の楽しみ横取りしないでくれます」
なので見せ掛けの自分を出す事なく毒づいた。
取られた楽しみの代償は、取り上げた本人に償って貰わなければ。
動かなくなった男の体を人影に向かって蹴り除けて、
まだ自分の中に入り込んだままだった異物から身を引くと、
間髪入れず間合いを詰めて、掴んだ短刀を渾身の力を込めて躊躇なく振り抜いた。
その切先には何時ものようなずぐりと肉に食い込む感触も、骨を砕く振動もなく、
代わりに鋼がぶつかり合う鋭く響く音と衝撃が握った掌にビリビリと走る。
一撃で殺すつもりの力を容易くを受け止めた刀はそのまま短刀を弾き飛ばすように払い上げ、
反す刀が自分の喉元を的確に狙ってくるのを切り裂かれる前に飛びずさると、
今度は相手に距離を詰められる。
男を切り裂いた腕前からそうだろうと予見は出来ていた、
飛びずさりながら辛うじて手元から放れなかった短刀を構え直し、
反対の手で別の得物を急所を狙って投げる。
投げながら当たりはしないだろうと思いながら。
そして、キィンという金属音と小さな火花と共に投げた得物は予想通り明後日の方向へと弾かれる。
その軌道を確かめる事無く短刀を眼前に構えた瞬間、血に濡れた刀が振り下ろされる。
そこで初めて、ギリギリと押される刀越しに相手の姿をはっきりと認識した。

そこには見た事のないモノが居た。

久々に手強い相手と遣り合っている現状に向かっていた興味が一気に相手自身へと向かう。
口元に浮かぶ酷薄で楽しそうな笑みと、長めの前髪の間から見えるぎらぎらとした獣の隻眼と、
その眼に滴るように溢れる狂気に惹き込まれる。
自分と同じように、だが自分の狂気とはまるで別の狂気を迸らせる男。
こんな人間が居るのかと芯からゾクゾクとした興奮に体が打ち震え知らず笑みが浮かぶ。
「……くっくっくっ」
不意に鍔競り合いを続ける男の口から笑い声が漏れる。
「おもしれぇなお前、気に入った」
そう言って心底楽しそうに眼を細め一層濃くなった酷薄な笑みを見て、考えるより先に言葉が零れる。
きっとこの男と同じような笑みを浮かべながら。
「俺も……アンタが気に入った」


これが、
俺の中で激しく感情が呼び起こされた最初だった。
この狂気にまみれた獣が欲しいと渇望した最初だった。

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